阿蘭陀菜【1】
それは、一年も残すところ一カ月ちょいに迫った頃のこと。
「トシ、本当にいいのかよ」
「いいって言ってんだろ。大したモンじゃねぇけどよ、俺らからの結婚祝だってことで、受け取ってくれや」
局長室で、胡座をかいて向かい合って座る二人の間には、白い封筒が置かれていた。
「結婚祝いったって、まだ式の日取りだって決まってねぇしよ」
「だったら、なおさら行ってこいや。総悟が『空手形切られた』って、本気で暴れだす前によ」
ずいっと再び封筒を押しやられ、困ったような表情のまま近藤は受け取ったその封筒を開ける。 中には、温泉旅館の宿泊予約券が入っていた。
宿泊者の名前は『近藤 勲様・総子様』
常に組織の頭に立って奔走している近藤への慰安と、結婚の祝いとを兼ねて土方が用意したのは、近郷の温泉地の高級旅館の宿泊予約だった。
見回りの合間にパンフレットを取り寄せ、吟味して選んだのは歴史ある老舗の宿。
「でも、ほらよ。大晦日から元旦にかけての、神宮とか大師とかの初詣警備もあるし」
他の組織なら、長であるという特権を使って率先して休んでしまうものが多い中、敢えてそれをしないのが近藤である。正月の休みは所帯持ち優先で回してやれという方針で、局長本人の正月休暇は時期をずらして取っていたのだが、その理屈に従えば、これからは己が優先休暇対象になる。とはいえ、まだその詳細も決まっていないだけに、いきなり休日にしてしまっていいのだろうかというのが、近藤が躊躇している理由であった。
「神宮はテレビ中継入っちまってっから、目立つのが行ってねぇとだろ? そこは俺が行きゃ大丈夫だろ。他のこともちっとシフト弄りゃ、問題はねぇ。そうは言っても、二日の午後にゃ、いつも通り松平のとっつぁんの所に行かねぇとだから、それまでに戻ってきてもらわねぇと、だがな」
「それを言うなら、トシだって夫婦揃っての初めての正月じゃねぇか」
「夫婦じゃねぇよ、ただ二人して仮装しただけだって言ってんじゃねぇか」
「形はどうあれ、オメェらだって、ちゃんと仲良く正月迎えねぇとだろ。よっしゃ、命令書作ってやろうな」
「いや、分かった。俺んとこは神宮から戻ってきたら、その日一日非番にさせてもらう」
時期がきたらちゃんと祝言を挙げる近藤と違って、自分らは何もしないままこの関係を継続していくわけだから、別に夫婦での初めての正月なんてのも必要ないと、土方は考えていた。
だが、ここでおとなしく非番にしておかないと、確実に局長権限で命令書を作られる。しかも故郷への出張命令書という形をとって、強制的に自分も祝言を挙げざるを得ないような状況に持ち込まれかねない。実家から「嫁はまだか、孫はまだか」とせっつかれているのを、のらりくらりとかわしているのを、近藤だけが知っているのだ。
「それにしてもよ、婚前旅行なんて、よくそーいうので聞くけどよ。いざってなると、ドキドキすんな」
「おいおい、オマエさんは『あらゆる恋愛に通じた愛の伝道師』じゃなかったのかよ」
土方に冷やかされ、近藤は「遊び慣れたオマエとは違って、エロゲーと現実はちげーんだよ」と、泣き笑いを浮かべた。
土方はそんなウブな親友の姿を微笑ましく眺めながら、内ポケットを探って煙草の箱を引っ張り出す。愛用のマヨネーズボトル型ライターで火を点すと、しばらくの間、黙って深々と紫煙を吐いていたが、ふと「だったら、新婚旅行の前に、どっかで筆下ろしして来るか? アンタ、観音様拝んだこともねぇだろ」と、突拍子もない提案をした。
「え? 今から? いや、その、さすがに駄目だろ、ソレは」
「いや、俺もこの後は仕事があるから、今すぐって訳じゃねぇが……ただでさえ、生娘なんて面倒くせぇからよ」
「そういうもんなのかよ? えーと、その。三十歳まで純潔を守ったら魔法が使えるっていうし、マジカルパワーでなんとかする。とりあえずバーチャルでのシミュレーションは達人クラスだし」
「エロゲーなんてしたことねーから知らんが、そんなんで、なんとかなるもんか? 大体、オンナは目ェつぶってただ股開いて転がってりゃ済むんだから、初めてだろうとお気楽なもんだけど、オトコは一応、考えてヤんなきゃいけねぇだろ?」
「確かに、ゲームはルートに入っちまえば、ある程度オートマチックだしな」
「それじゃ、シミュレーションの意味なくね? そういや『すまいる』の阿音だかいう女、なんかあったら相談に乗るとかゆーてくれてなかったか?」
「まぁ、そうなんだがさ。でもよぉ、ちゃんと嫁さんがいるっていうのに、他の女と寝るのって、その、やっぱ不誠実っていうか、さぁ。いくらフーゾクは浮気じゃないっていってもさ、女の側はそうは思ってくれないだろうし」
ぐだぐだ言っている近藤をシラーッと眺めていた土方であったが、吐き出した煙草の煙が白く薄れて消えて行くのを見つめながら「なんだったら、俺が筆下ろししてやろうか?」と言い出した。
「え、いやぁ、トシにしてもらうと、他の女で勃たなくなりそうだから、やめとく」
「ああ、そういう危険はあるな。なまじっかの女よか、よっぽどイイという自信はある」
「おまっ、それ、自分で言うか?」
「ジョークだ、ジョーク。本気にするな」
土方の場合、いくらジョークと言っても洒落でなくなりそうで怖い。近藤は必死になって「その、俺の場合、アレだから。経験がどうのっていう前に、ナニがさ。やっぱその、皮がさ」などと口走って、話を逸らそうとした。
「別に、んなもん被ってても関係ねぇだろ。それよか魔法使いのままっていう方が、問題あると思うんだが」
「いやぁ、その、なんつーか、被ってたら笑われそうじゃねぇか。いや、総悟だから、俺の事情も分かっててくれてるだろうから、笑いはしねぇかもしれねぇが、その、こっちのプライドっていうかさ」
「んだよ、そんなことグダグダゆーんだったら、いっそ剥いちまえよ。なんだったら、剥くの手伝ってやろうか? こう、しゃぶってやーらかくしたところで、一気に、こう……大丈夫、痛くしねーから」
そんな世にもオソロシイことを口走りながら、片手を股間に伸ばしてくる。近藤は思わず飛びのいた。足を滑らせ尻餅をつき、そのままずりずりと這って逃げようとする。
「いやぁああん、らめぇえええ! トシに襲われるぅううう!」
「ゴリラが野太い声でキモいこと言うな! 冗談だ、ボケェ!」
土方が、その近藤の尻を渾身の力で蹴り飛ばしたものだ。
真選組というのはそもそも、攘夷志士対策をメインとした武装警察として設立されたのだが、攘夷戦争が終わり天人サマサマの世の中になったこのご時世、昨今では過激派テロなどそうそう頻繁に起こるものでもない。
身分の高い武士が主要メンバーの見回り組と違い、武州の芋サムライの集まりである真選組は、幕府内では何かと継子扱いで「無駄飯喰らい」と槍玉にあがる。予算を削られたくなかったら、一応なんか仕事をしておけという、警視総監・松平片栗虎の意向もあって、ちまちまと検挙のノルマ達成……もとい江戸の平和のためにも頑張っているのだが、師走に走るのは先生だけではなく、不貞の輩もであるらしい。
全てやらかさんと年が越せんのかとツッコみたくなるほど、落し物に迷子の面倒から、窃盗、痴漢、暴行、放火、詐欺、交通違反、麻薬取締法違反と、大小さまざまと取り揃えております状態。不景気のせいか「拘置所に入ったら無料で飯が食える!」というクズも発生して、本業の対テロ活動に支障を来たしかねない忙しさだ。
おかげさまで、屯所の食堂に『小さな悪も見逃さすな!取り締まり強化月間』と、デカデカ張り紙されているのが、悪い冗談にしか思えない。腰を据えて飯を食う余裕もなく、そこいらに転がっていたツナ缶で作ったサンドイッチを立ったままかじりながら、山崎は掲示板に貼られた『検挙速報』なんぞを眺めていた。
これだけ忙しければ、とうに全部隊ノルマ達成しているだろうと思っていたのだが、半分もクリアしていない。つまり、点数にならないショーモナイ案件に振り回されているということなのだろう。
「あの、山崎さん、ここに置いてた缶詰、どうしました?」
その背中に声をかけてきたのは、監察方の後輩、尾形鈍太郎だ。
「アレ、オマエのだったの? 悪い、美味かったわ。取られたくなきゃ、名前でも書いておけよ」
油分控えめのうえにやけに薄味のツナだったので、ゆで卵だの刻み玉葱だのキュウリだのを加えればもっと美味しかったに違いないが、自分が食べる分にそんなに手間をかけていられない。
「俺のっていうか……あれ、しのの分だったのに」
「しのぉ? 誰、それ」
山崎は眉をしかめた。
しの、という愛称ですぐに思い浮かぶのは、既に鬼籍に入っている篠原進之進だ。鬼兵隊と組んでクーデターを起こした伊東鴨太郎の同門だったのを、土方が惚れこんで監察方に引き込んだ。結果としてはクーデター側についたのだが、もし彼がそこで命を落とすことがなければ、山崎の今の『嫁』としての立場は存在しなかったろう。
「誰って、しのは、しのだよ。どう見たって、しのだもの。山崎さん、会ったことないの?」
「いや、だから誰? 隊士?」
「しの」
話していてもまったく埒があかない。イラッとすることはもちろんだが、情報を司る監察方がこれで大丈夫なのか、先輩である自分の教育責任が問われるんじゃないかと、逆に不安になるほどだ。
「中庭にいるんじゃないかな」
尾形がそう呟いたのを聞いて、山崎はパンの残りを口の中に押し込んで、食堂を出た。
後ろから、尾形が(なぜか牛乳パックを抱えて)ついて来る。
「で? どこのどいつが、あのヤローだって?」
「しの……ああ、いたいた」
尾形がそういうと、縁側に駆け寄った。
「こいつの缶詰ってことは、その、まさか」
山崎の顔色がすぅっと青くなる。ぶるぶると震えて、こみ上げてくる感触に口元を押さえた。耐え切れずにそのまま、厠へと駆け込んだ。
「山崎さん? あれ、どうしたんだろう。ねぇ、しの」
そう呼びかけられて、尾形の膝に頬を擦り付けているのは、丸々と肥えた一匹の野良猫であった。
「なんで、その猫がしの、なんだよ! つーか、このくそ忙しいのに、サボッて猫の面倒なんか見てるんじゃねぇよ!」
キャットフードのサンドイッチをリバースしてきた山崎が、タレ目を精一杯吊り上げて喚く。尾形は餌皿の代わりにしているらしいプラスチックのボウルに、牛乳を注いで猫に舐めさせていた。
「サボりじゃないです。ちゃんと猫当番決めて、シフト組んで面倒みてます……といっても、芦屋はしのに嫌われてるみたいだし、新井さんも虐めるから、服部さんと俺の二交替制なんですけど」
「余計に悪いわ!」
訂正。蟻などは全て忙しく働いているように見えるが、そのうち本当に働いているのは二、三割で、残りはサボっているのだという。忙しく感じるのにノルマが達成できないのは、つまり、そういうことなのだろう。監察方としてぺーぺーの尾形はともかく、中堅どころの服部の手を煩わせていては、少なからぬシワ寄せがあろうというものだ。
「でも、ちょっと似てるでしょ? 目もつぶらで」
山崎が女に化ける仙丹を飲んで、強引に土方に押しかけ女房したのは、もうかれこれ数カ月前。
その頃はまだ、伊東のクーデターの傷跡も生々しく、土方もその事件で亡くなった篠原に対する懸想も未練もたっぷり残っていた。しかもその怨念のせいか、篠原が主な職場にしていた資料室では、得体のしれない怪現象まで起きる始末(※前作【16】参照)。
ヤツは潔く成仏したと信じたいのに、寄りにも寄って猫をつかまえて「似てるでしょ」なんて……ホンキで勘弁してもらいたい。
「お願いだから、そいつ、改名してくんない? ポチャとかモジャとか」
「なんで? しのって呼んだら返事するのに」
尾形だけじゃなく、本人ならぬ“本猫”も、新しい名前に不満そうに低く鳴く。
「なんでじゃないよ、そんな名前、副長が聞いたらなんて思うか、考えてみろよ!」
「えーと。篠原さんが戻ってきたようで、嬉しいんじゃないかな」
「嬉しくねぇええええ! と、も、か、くぅ! 今度そのデブ猫見かけたら三味線にしてやるからな!」
捨て台詞を吐いてから、食堂に戻った。
再び胃袋が空っぽで、ぎゅうぎゅう派手に虫が鳴いてめまいがしているが、猫缶の後味のせいか食欲は激しく減退している。せめて何か飲み物でもと、大きな金色の薬缶からプラスティックの湯飲みに注いだ麦茶を啜っていたら、不意に誰かが立ちはだかった。
視界の端に入ってきたテーブル向こうの銀モールに、山崎は顔を上げる。
「なんだ、沖田隊長ですか」
「なんだたぁ、なんでイ。見つけやした、山崎。パト出しなせイ」
「どこ行くんですか?」
「ねーちゃんの墓参り」
「ちょっ、この状況で行くんですか。一番隊って、ノルマ達成どころか、中間報告書もまだあがってないんじゃ……ってぇぇぇ!!」
襟首を掴まれずるずると引きずるようにして、食堂から連れ出される。
「年末までもう少し日にちあるんだから、お姉さんのとこはそれからでもいいんじゃないすか?」
「年末までもう少し日にちあるんだから、ノルマ達成はそれまでにやりゃいいんじゃねぇですかイ。後で後でと思ってるうちに、何か事件が起こって動けなくなったらどうしてくれるんでイ」
ここにも七、八割の側の蟻が居た、と山崎は頭が痛くなるのを感じる。しかし、沖田の言うことも一理ある。いくら今が忙しいとは言っても、隊士全員が緊急配備につくような凶悪テロ事件が発生している訳ではないのだ。
「これで、もし墓参りし損ねたら、ねーちゃんが化けて出やすぜ」
「勘弁してくださいよっ。沖田さんのお姉さんだけに変な説得力あるからっ」
ただでさえ、なんか化けて出てるっぽいのがいるのに、とは口に出して言えない山崎であった。
その女二人が出かけてから半刻ほど後。
外回りから戻ってきた土方は遅めの昼食を済ませ、食後の一服でもしようと思い立っただけで、別に他意は無かった。談話室にぶらりと立ち寄ってベンチに腰掛け、スタンド灰皿をずりずりと自分の前に引き寄せる。
「おいおい、その灰皿は皆のだろう。独占すんなよ」
苦笑しながらもそう苦言したのは、永倉新七だ。他の隊士も何人か居たのだが、永倉は武州の芋道場時代からの付き合いなので、他の隊士よりは心安く土方に声をかけられる。
「わざわざ歩いて灰を落としに行くのが、面倒くせぇんだ」
「それは皆も同じ条件だろうが。たかが一歩、二歩で」
「その一歩、二歩が面倒なんだよ。副長権限ってことにさせてくれや」
「職権濫用だろ明らかに……それにしても、おめぇさん。そんな不精してて、しかも普段からあんな高カロリーなモン食ってて、よく太らないよなぁ。羨ましいよ」
「高カロリーなモン?」
「マヨだよ、マヨ」
そうかな……と、土方が首を傾げると、長い睫毛の影が蒼く揺れて、白い膚を嘗める。煙草をくわえて僅かに歯をのぞかせている紅い唇と併せて、男の目から見てもドキッとするほど、艶かしい。
不覚にもその表情に見とれてしまった永倉だったが、ふと思い出したように「おめぇぐれぇの器量なら、別嬪さんなんか選り取りみどりだろうに、なんだって寄りにも寄ってアレなんだ?」と尋ねる。虚を突かれた土方は一瞬、何の話だか理解しかねたが、しばらく視線を宙にやって「ああ、ザキのことか」と、思い当たった。
「別に、ツラの善し悪しは関係ねぇだろ」
「ツラじゃなかったらカラダ……って言っても、あのつるぺただしな。おめぇ、実はロリコン?」
永倉があまりにも真顔で言うので、土方は煙が変なところに入ったのか、思わずむせ込んでしまった。
「ちっ、ちげーよっ。大体、あいつはロリコンってツラでもねーだろっ」
「まぁ、確かに」
「ほれ、言うだろ。美人は三日見りゃ飽きる、ブスは三日見りゃ慣れるって」
「じゃあ何か? もしかしてザキって、ミミズとかイソギンチャクでも飼ってんの?」
「ミ……いや、そーいうんじゃねーから」
「バナナが切れるとか」
「試したことねぇ。つか、食い物を粗末にするな」
「じゃあ、狭くて具合がいいとか」
「なっ、永倉さん、そんなもん根堀り葉堀り聞くなんざ、趣味悪いぜぇ」
慌てて話題を打ち切ろうとしたのは、ついポロリと「確かに、それはあるかもな」などと失言しそうになったからだ。
過去にみた例が山崎だったせいもあって「性転換するクスリなんていっても、現実にはあの程度なんだろう」と思っていたのだが……今回の沖田の見事な変体ぶりと比べてみるに、山崎はたまたま、薬が効きにくい体質だったらしい。胸乳が小さいのもそれが理由なのだろう。そして、下腹部も成熟しきっていない感じがする……が、その件については、特にどこにも報告していない。
いくらその薬効の臨床データを求められたとしても、何もそんなプライバシー情報というかセクハラまがいのことまで知らせる義務はないし、言えば言ったで「幼女相手にヤってるようなもんか。つか、そんな状態のモノ相手にサカってるのか」と、また鬼畜外道呼ばわりされるのが関の山だからだ。
「じゃあ、あえて聞かないから、俺が直接検分しておいてやる。今度、一晩貸してくれや」
「ばっ……貸せるわけねぇだろ。大体、そんな特別にイイわけじゃねぇよ」
「ふーん? 顔でもなくカラダでもないとなったら、何だ? 単に、タダでヤれるからヤっとけ、ってやつか?」
「いや、そこまで割り切ってもねぇ。つーか、その」
ここでしれっと「性根に惚れたから」とでも言っておけば、相手も「ご馳走様」とでも言ったきり、それ以上話が広がることもなかったろうが、口下手な土方がそんな気の利いた台詞をとっさにひねり出せる由も無かった。
「その、えーと。灰皿の灰、捨ててくらぁ」
そう言って逃げようとしたのだが、永倉が「あ、その灰はダメ」と押しとどめた。
「なんでだよ」
「猫よけに使うんだよ。別に中庭で可愛がっている分にはいいんだけど、詰め所にまでチョロチョロ入ってきてイタズラするから、吸殻をほぐして水に漬けて一晩置いたのを、撒いておくといいって」
「猫ぉ?」
「あれ、知らないの? 監察方で面倒見てるからてっきり。確か、監察方で亡くなったヤツの名前つけてたし」
「そうなのか?」
監察方は平隊士待遇でありながら、人使いの荒い副長直属のせいか、過労死や殉職が珍しくない過酷な部署だ。亡くなったと言われても誰のことだか……と、土方は視線を宙にやった。
「ほら、春先のクーデターで」
「篠原、か?」
「ああ、そうそう。確か、そんな名前」
忘れよう忘れようとしていた名前を聞いて、土方は先ほどの、山崎に関するやりとりをスパッと忘れてしまった。
「で、さっきの話。ホントにミミズとか、いねーの?」
しつこく畳み掛けた永倉の質問にも上の空で「ミミズなんかどうでもいい。虫けらなんざどこにでもいるだろ。で、その猫は中庭なんだな?」と尋ね返し、喫煙室を飛び出してしまう。永倉は小首を傾げて土方の発言を反芻する。同席していた隊士らも、複雑な表情を浮かべていた。
「あれ、どう思うよ?」
「つまり、居るんじゃないですかね、ミミズ」
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