陽台の夢【上】


「銀時様、玄関のチャイムがなっています。お客様が来られたご様子です」

枕元でそう囁く機械人形の白い手を掴んで引き寄せると、銀時はその細い腰に抱きついた。 ひんやりとした滑らかな下腹に、頬を押し付ける。人造皮膚のもっちりした肌触りが心地よい。

「まだ眠みぃよ。新聞の勧誘かなんかだろ? 放っておこうぜ」

「起きてくださいませ。そろそろ神楽様が定春様の散歩から戻られる頃ですし、私もお店の開店準備を手伝わなければいけません」

開店準備? 彼女が働いているスナックは、日が暮れてからの営業だ。もうそんな時間なのか、どのぐらい寝こけていたのだろうと慌てたが、そもそも芙蓉のボディを抱き枕代わりに寝入ったのが、昼過ぎだったと思い出した。
芙蓉が手早く着物の乱れを直した。解いた髪を結い直すのは時間がかかるため、取り急ぎ手で軽く撫で付けてから、寝室を出て行く。

「ち。しゃあねぇな」

仕事というのなら、起きねばなるまい。
社会人ってぇのはつらいねぇと、銀時は額に手を当ててよろよろと立ち上がった。スラックスに足を通して、いつもの白い羽織を引っ掛ける。
玄関からは、客の応対をしているらしい芙蓉の声が聞こえていた。






「ハイハイ、お待たせ。万事屋銀ちゃんですが」

「ヨロズヤ? ここ、なんでも屋さんだよね。そう聞いているんだけど」

玄関には、いかにも高価そうな着物に身を包んだご婦人が居た。
銀時が芙蓉の肩を軽く触れると、芙蓉は「タッチ交代」と察したのか、軽くうなづいて居間の方に戻った。

「なんでも屋といえば、なんでも屋かな。金さえ貰えれば、犬猫の迷子探しからパトリオットの製作まで、何でもするぜ」

「パトリオット?」

「パトリオット、知らねーかな。パトリオット……ところで奥さん、確か、真選組んとこのフクチョーさんの、だよね」

「え? うん、どうしてそれを?」

途惑っている『ご婦人』は、まさしく日夜であった。
どうしてと言われて説明するのも面倒なので、へらっと笑って「銀さんはかぶき町のことなら何でも知ってるのよ」などとはぐらかしながら、日夜を居間へと招く。長椅子に向かい合わせに腰掛けたタイミングを見計らって、お盆を手にした芙蓉が台所から出てきた。
湯飲みをテーブルに置いた芙蓉が、ちらりと銀時に視線を走らせる。次の指示を待っていると察して「たま、戻っていいぞ。店の支度があるんだろ」と告げたが、芙蓉は軽く首を振ると「でも、私の髪をまだ結ってもらっていません」と答えた。

「へっ?」

「銀時様が髪を結ってくださらないと、下には行けません」

確かに、芙蓉は着物などはきちんと着込んでいるものの、長い髪は解かれたままになっている。一応、飲食店なのだから、ざんばら髪では衛生上、問題があるのだろう。
それぐらい自分で結えるだろう、ツインテールでもなんでも好きなアタマにしろよ、と叱りたいところだが、あいにく客の前だ。

「あー…後でな」

「かしこまりました。では、お待ちしています」

芙蓉は一礼すると、銀時の隣に腰を下ろした。

「えーと。それで? 奥さんは万事屋銀ちゃんに、どんなご依頼を? 旦那の浮気調査とか? それとも逆に、出来心のロマンスのもみ消しとか?」

「浮気の相談じゃない」

「そうなんだ? 人妻の相談っていやぁ、俺ァてっきり、そっち系だとばっかり……で?」

日夜がなにやら口ごもっている様子なので、銀時は一拍おこうと自分の前に置かれている湯飲みを口に運んだ。
つられて日夜も湯飲みを手に取る。両手の平に湯飲みの熱を感じているうちに緊張がほぐれてきたらしく、やがて、歯切れが悪いながらもぽつりぽつりと語り始めた。





彼女の夫である土方十四郎が、湯上がりに上半身裸で寛いでいたのは、昨夜のこと。

「見苦しいな」

「自分の部屋でぐれぇ、好きな格好でいてもいいだろ。見たくなきゃ、自分の部屋に帰れ」

そこに山崎が「そーだそーだ、デコかーえーれー」と便乗して騒いだが、そういう煽り方は逆効果でしかない。日夜は「やだ、帰らない」と宣言すると、土方の背中にコアラの子供のように張り付いた。

「せっかく涼んでいるのに、抱きつくな」

「だって」

分厚く盛り上がっている背中の筋肉に、頬を押し付ける。

「土方君、背中すべすべー…脱毛したの?」

「は?」

「背中に毛、ないよ」

「んなもんあるか」

「えー? ウソだぁ。お風呂でぷちぷちしたじゃないか」

「いつだよ」

「いつって、結構前……背中の毛って、こう、手でつまんだら簡単に抜けるんだなーお湯でふやけて、毛穴が開いてるせいかなー…って」

「ねーよ」

アレ? と日夜が首を傾げる。
山崎が「デコ、誰かと間違えたんじゃないの?」と突っ込むと、真っ赤になって「そんなことないもん!」と喚いた。

「土方さんの背中が毛ボーボーなわけないじゃんか。局長じゃあるまいし」

「だって、ホントにぷちぷちしたんだもん」

土方は呆れながら「男だった頃に、自分で抜いた記憶とこんがらがってんじゃねぇのか? いつぞやも男に化けたり戻ったりしてたから、脳に負担がかかったんだろ」と助け舟を出したが、山崎に「自分の背中の毛を自分で?」とツッコまれると、それ以上フォローができない。

「ほらみろ。デコ、どけ」

「やだ」

互いに譲らず土方の背中でおしくらまんじゅう状態になったため、しまいに土方が「どーでもいい。おまえら喧嘩するなら、出て行け」と怒鳴り、喧嘩両成敗とばかりに二人とも、部屋から叩き出した。




性転換の影響もあって、自分の記憶には多少の不安がある伊東だが「背中の毛を抜く」などという特殊な(?)記憶が、単なる妄想や捏造であるとは信じ難い。男の頃の体験かも、という土方の言葉にヒントを得て、翌朝一番で祐筆(秘書)の篠原進之進を訪ねてみたのだが、その篠原も「はぁ?」と、ただでさえ大きい目をさらに見開いただけであった。

「確かに、自分は伊東先生とは古くからのお付き合いでしたけど、風呂に一緒に入ったりするほど懇意だったかといえば、ちょっと」

「そ、そうなのかね」

「もちろん尊敬はしていましたけど、そういうお戯れをするほど、先生と打ち解けていたかといえば」

「他に、私が親しくしていた人物に心当たりは?」

「まさか先生、そのひとりひとりに、一緒に風呂に入って背中の毛を抜いた覚えがあるのか、聞きまわるおつもりですか?」

「だって、あんなにはっきりと覚えてるのに」

「どう考えても、昔の先生はそんなことをなさるお人ではありませんでしたよ」

「そうなのか。つまらん男だったんだな」

日夜が真面目くさった顔で呟くと、篠原が「ご自分のことでしょう」と、吹き出してしまった。

「あ、もしかして」

「ん? 何か心当たりでも」

「いや、でも、それはさすがに」

「誰?」

「いえいえ、お気になさらず」

篠原は引きつった笑顔を浮かべて、そこから先は口を濁した。
篠原が頼りにならなければ他に頼る相手が居ないのが、日夜の日頃の行いの悪さだ。行き詰って、執務室を兼ねた自室で拗ねて不貞寝していたところに、愛娘の陽向が駆け寄ってきて「にょろんやしゃん」と、甲高い声で言った。

「にょろん?」

「よろず、じゃないですかね」

陽向の後をついてきた吉村が、小首を傾げながら言う。バラガキの父とエリート気質の母の血をそれぞれ引いて、我がまま気ままに育っている陽向だが、吉村相手なら「にぃにのおめよしゃんになるの」と慕って比較的いうことをきくので、子守役を任ぜられているのだ。今日も今日とて、屯所の庭に住み着いている猫の尻尾を引っ張ろうと追い回すのを「動物を虐める子は、お嫁にいけないよ」などと言い聞かせて、諦めさせたところだ。

「にょろんやしゃん、たしけてくれるよ」

「万事屋の旦那だったら、確かになんでも助けてくれるでしょうね。どこでそんなことを覚えてくるんですかね。隊士の与太話か、近所の子供かな」

「よろずやのだんな?」

「ご存知ありませんかね、万事屋。副長は仲良しみたいですけど。かぶき町の、スナックお登勢って店の二階の……」






「で、ウチを尋ねて来たってわけか。つまり、なんだ。奥さんのおかしな記憶をどうにかしてほしいってコト?」

「そう」

そんなもの病院に行けと放り出したいところであったが、銀時も記憶喪失になった経験があるので、医者といえども「そのうち思い出すでしょう」程度のことしか助言できないのはよく分かっている。

「そうだ、たま。おめぇ、機械の中にダイブして修理とかできるんだろ。人間相手じゃ無理か? 金時の洗脳を解いたりとか、多少は人間の精神に干渉できただろ」

「やってみましょう。まず、缶コーヒーを買ってきます」

いちいち缶コーヒーが必要なのか、OLの昼休みの屋上以外にシチュエーションは無いのかとツッコミを入れたいところであったが、他に方法が思い当たらないのだから仕方ない。

「では、奥様。目を閉じて楽になさってください」

店の前の自動販売機で『親分』コーヒーを買ってきた芙蓉が、日夜の正面に立ってその額に触れた。





薄暗いコンクリート壁に包まれた階段を、缶コーヒーを片手に上っていく。屋上に繋がる鉄製の扉は閉じているが、鍵はかかっていない。押し開けると、四方を囲むフェンスと貯水槽タンク、鉄塔などが見えた。当の本人はどこにいるのだろうと、芙蓉は辺りを見回す。通常ならば、フェンスにもたれて悩んでいる乙女の背中がすぐに見つかる筈なのに。空はどんよりと曇っている。

「奥様?」

同僚の恋愛相談というシチュエーションには似つかわしくない呼び名だと気付いたが、他に名前を知らないのだから仕方ない。もう少し設定を練るべきだったかな、子育てサークルとか、ママ友のランチタイムとか……と後悔したが、今さら引き返せない。

「奥様、どちらに……ああ、いらした」

駆け寄ろうとして、足が止まった。機械人形にはあるまじき表現だが、彼女に近づいてはいけないような『気がする』。バグやウィルスというよりも、もっと根の深い危険信号。振り向いた顔が恐ろしいものになっているのではないか、という根拠のない不安がこみ上げてくる。

「あなたは……誰?」

次の瞬間、芙蓉は誰かに強く揺さぶられていた。






「たま、しっかりしろ。たま」

いつの間にか、いつもの万事屋の居間に居た。銀時が両肩を掴んで、揺さぶっている。

「起きたか。良かった。人間にダイブしろなんて、無理を言って悪かった」

「奥様は?」

「何もねぇ。おめぇがいきなり倒れた」

「すみません、心配をおかけして」

銀時が手を貸そうとするのを遠慮して、自力で起き上がる。

「今思えば、あれは奥様以外の気配だったのかもしれません。とても人間とは思えない、冷たくて邪悪な悪意を感じました。奥様の姿をした別のものといいましょうか」

「背中の毛どころじゃなかったんだな」

「お役に立てず、申し訳ありません」

銀時は、しょんぼりしている芙蓉の頭をぽんぽんと軽く叩いてから「さて、どうしたもんかな」と日夜に向き直った。

「俺がバイクで事故って、記憶をぽろーんと落とした時には、記憶を刺激しそうな場所を歩き回ってみろって言われたな。記憶ってのは一本の木みたいなモンだから、どれか枝の一本でも動かしてやれば、全体が蘇るって。それでも数日かかったから即効性は期待できねぇけどよ」

「そんな場所の心当たりなんてないよ」

「俺だって心当たりはなかったさ。とりあえず、誰かの背中の毛抜きでもしてみるとか?」

「誰かって、誰? てっきり土方君だと思ってたのに」

「誰って……俺か? 確かに、金さえ貰えればなんでもやるのが万事屋の方針だけど」

「いくら払えばいい?」

日夜がハンドバッグを引き寄せ、分厚い封筒を取り出す。現ナマか、あの厚さなら一、二百万円ぐらいかと思ったが、封筒の中身は小切手帳であった。価格は青天井ですか、さすが生粋のセレブは桁が違うわ、とめまいを覚えてしまう。

「銀時様のお家賃が、三カ月分ほど滞納されています」

「ちょっ、たまっ!」

慌てて止めようとしたが、いつもはいじらしいほどに銀時を慕っている芙蓉だが、なぜか家賃回収業務に関してだけは融通が利かない。エプロンのポケットから携帯電話を取り出して電卓代わりにいくつかキーを叩き、液晶部分を日夜に示してみせた。

「それぐらいでいいのなら」

さらさらと小切手に数字を書いて「経費扱いにはならないだろうから、領収書は要らない」と差し出した。

「わーったわーった。じゃあ、俺が文字通りひと肌脱げばいいんだな。ウチの狭い風呂でよけりゃ、再現してみっか」




さすがに人妻の前で全裸は憚られたので、パンツだけは履いた格好で腰湯に浸かり、手桶で背中に湯をかけまわした。

「えーと。どぞ」

「土方君みたいなツルツルじゃないけど、その代わり、毛が見えにくい」

「そうはいっても、色素が薄いのは生まれつきだし」

苦笑いしながらも背中を差し出すと、日夜はしゃがみ込んでおずおずとその背中に指を触れた。獣のように盛り上がっている筋肉には、無数の刀傷が這っている。そっと産毛を一本摘むと、あっさりと抜けた。

「痛くない?」

「背中は痛点が少ないっていうしなぁ。で、何か思い出せそうか?」

「分からないけど、こんなゴツゴツじゃなかった気がする」

「銀さん、意外とマッチョでセクシーだからなぁ。別に、こっちは痛くも痒くもないから、遠慮なく気がすむまでやっとけや」

「うん」

こんなことをしていて本当に記憶が戻るのだろうかという不安と、あのお女中が見たという『奥様の姿をした別のもの』とは何だろうかという疑問はあったが、少なくともこれが初めての体験ではない、ということも確信できた。
次第に、生来の集中力もあってか、その単純作業にのめり込む。

かも、と呼ばれた気がした。
鴨。なにをしているんだね、猿の蚤取りじゃあるまいし。

ああそうだ、そう呼ばれたんだっけ。そして、そう呼ぶ相手は一人しかいない……そこから記憶を辿っているうちに、今まで忘れていたことがポツリポツリと浮かんできた。なぜ兄と一緒に湯浴みをしているのか、なぜ兄とそんな宿に行ったのか。そんなインパクトのある出来事を、まるっと忘れていた己が信じられない。





僕は……?

「伊東鴨太郎、だろ。それとも日夜か?」

ひ、よ……?

「戻ってるな」

「そのようですな。高杉様の変名を思い出す時点で、術がほぼ解けていると言って良いでしょう」





そして、煙管を差し出されて。
何度もそのようにして、都合よく記憶を塗り替えられていたようだ。いや、土方への想いすらも、術者によって植え付けられたものだったかもしれない。「お子まで成した夫婦仲が良いのは、自然なことですよ。何より、その方が『効率的』です」という理由で。




僕は……誰?




初出:2011年12月13日
一部訂正:同月15日
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壁紙:素材屋Miracle Page より。

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