陽台の夢【下】


「どうした、泣いてやがんのか。兄上とかゆーてたみたいだけど、ドサクサにまぎれて、つらいことまで思い出しちまったか?」

尋ねられて我に返った。頬が濡れているのに気付いたが、とっさに袖で顔を拭った。

「泣いてないもん」

「そうけぇ」

ばしゃ。

一瞬、何が起こったのか理解できなかったが、銀時が桶に湯を汲んで、日夜の頭の上からぶっ掛けたのだということを、徐々に理解した。

「なるほど、泣いちゃいねぇな。顔が濡れてんのは、ただの水だろ」

反射的に『無礼な』と口から出かかったが、唇からは嗚咽に似た呻きが漏れただけだった。トドメとばかりに、銀時がさらに湯を掛け流し、髪だけではなく、高価な絹の着物までずぶ濡れになってしまう。日夜は、濡れ鼠でべそをかいている己がなんだかおかしくなってきて、涙か風呂か分からなくなった温かい水を手の甲で拭った。
ふと、そのときにジジッ……という小さな音が聞こえた気がした。



日夜が小首を傾げながら己の指先を見ると、左薬指にシンプルな銀色の指輪がはめられている。

「わ。なにそれ、ケッコンユビワ?」

「土方君からは指輪、貰ったことない。多分、だけど」

「じゃあ、オニーサンとか?」

日夜はギョッとして、その指輪と銀時を見比べるが「兄上でもない……と、思う。兄上からは帯止めを貰ったから」と、呟いた。誰から貰ったのか、それとも自分で購ったのか。娘に「ハイ」と手渡されたような気がするが、どうにも記憶が判然としない。

「覚えてない……が、これ、音がした気がする」

「音ォ? どれ、見せてみ」

銀時が日夜の手をとって覗き込む。一見、ただの輪に見えたが、耳を近づけると確かに微かに鳴っており、その音が徐々に消えていく。指でつまんで軽く引くと関節に引っかかったが、日夜はその意図を察したのか、自ら指輪を抜いて銀時に差し出した。

「機械式?」

内側を覗き込んだ銀時の呟きを、日夜がオウムのように「カラクリシキ?」と繰り返した。

「これ、知らなかったのか。どこの誰に貰ったとかも、か?」

尋ねられて、こっくりと頷く。それどころか、自分が指輪をしていたことにすら、ほとんど気付いていなかった。だが、指に痕がついていたことから察するに、かなり長い期間、はめっ放しになっていたに違いない。

「しゃあねぇな……源外じーさんにでも調べてもらうか? オイ、たま」

銀時が浴室の外に呼びかけると、先ほどの女中……芙蓉が入ってきた。

「これ、源外じーさんに調べてもらってくれないか」

「かしこまりました」

芙蓉の表情がやけに硬く、日夜は怯えて無意識に銀時にすり寄ったが、銀時はまったく意に介せず「これ」と指輪を差し出す。

「この程度でしたら、私でも解析できます」

「そうかよ、頼むわ」

芙蓉はやおらその指輪を口に放り込むと、飲み込んだ。銀時と日夜が唖然と見守る中、彼女の体内からポスンという気の抜けた音がして、耳から煙が立ち昇った。

「ひゃぁっ!」

「たま? 大丈夫か?」

「自爆装置が発動したようです」

芙蓉はそう言うと、舌を出した。舌の上には黒焦げの輪が乗せられており、赤や青のコードが巻き付いていた。コードの先も黒ずんでいる。

「お女中は、機械人形なのか」

道理で挙動が不自然だと思った。

「なんの機械だったかも分からねぇか?」

「申し訳ありません。可能性としてはGPS、通信端末、なんらかの送受信装置などが考えられますが、確定はできません」

「GPSね。誰かに迷子防止の鈴でもつけられてたのかね?」

「あるいは、冒険の書かもしれません」

銀時は「それは無い」とツッコもうとしたが、日夜が「あ、冒険の書、いいな」などと呟いたので、それ以上追求するのを諦めてしまった。代わりに、芙蓉の口元に触れ、その焦げた指輪を取り上げた。

「冷えてきやがったな。毛抜き、もういいな?」

「あ、うん」

「たま、着替え持って来い。あと、奥さんになんか着るもの……おめぇの服でも出してくれや。着替え、こないだ買ったろ。ピンクのふわふわしたエプロンドレス」

「あれは、銀時様が私のために見繕ってくださったものです」

「嫌なのか。機械のくせに一丁前にヤキモチか。だったらおめぇがアレ着て、その着物を貸してやれ」

「かしこまりました」

芙蓉が立ち去ると、途端にふたりがずぶ濡れであること、そして銀時はパンツ一丁姿であることが急に意識されてしまい、日夜は赤面した。

「俺ァ、先に出てる。奥さんはここでその着物脱いで、たまが持ってくる服に着替えるといい。濡らした着物は、洗いにでも出してキチッとして返すわ。さすがにセレブの着物は高級そうだから、そのままって訳にはいかねぇだろ」

「すまない」

「なぁに。オシゴトですから」

銀時は背中で答えると、焦げた指輪を片手にくるくると弄びながら風呂場を出た。





「坂田殿。ちょっと、この服は僕には」

風呂場からなかなか戻って来ないので心配して覗きに行くと、日夜は取りあえず着替えは済ませていた。芙蓉からの借り物である肌襦袢と単衣姿なのだが、単衣は膝上数寸もあるミニ丈である上に、エプロンやニーソックスが無いために、細い足が剥き出しになっている。

「あらまぁ、ずいぶんとセクシーな」

「こんな格好では、恥ずかしくて出られない」

「別に、恥ずかしがることはねぇと思うけどな。旦那さんが見たら惚れ直してくれるんじゃね?」

「そ、そうかな。でも、はしたないし、年甲斐もないし」

「それにまぁ確かに、ちぃと冷えるわな」

苦笑すると、銀時は手早く己の腰のベルトと帯を解く。日夜がギョッとする間もあらばこそ、白い羽織を脱いで日夜の肩にかけてやった。

「その、人肌で生ぬるくてキモチワルイかもしれねぇが」

「いや、気持ち悪くなど……むしろ快いよ」

「いやいやいや、その格好で帰したら、痴話喧嘩の元になるだろ。勘弁してよ。部屋で代わりのんがないか探すから。それまでちっとの間、それで辛抱しててくれや」

居間に戻った日夜が銀時の羽織りを纏っていることに気付いて、芙蓉がチロッと身じろぎしたが、さすが機械人形だけに表情が変わることは無い。代わりに散歩から戻っていたらしい神楽が「あー…ひよちん、銀ちゃんの着物、いいなーいいなー」などと言いながら、日夜の胸元にすり寄って来て、二人羽織りのような格好になる。

「ちょ、おいコラ神楽、てめぇは酢昆布くせーんだよ。脇の匂いみてぇな酸っぱい匂いがすんだろーが!」

「人妻のニオイを着物につけてオカズにしようなんて、そんな不埒なマネは許さないアルヨ」

「ばっ、ばっきゃろう。ヅラじゃあんめぇし、別に俺ァ人妻好きとか、そんな性癖ねぇよ!」

「僕は構わないよ?」

「はぁ!? え、ちょっとマジですか、奥さん正気ィ!?」

「え? う、うん。だって、あったかいし」

銀時はうろたえて日夜を見やったが、それが『浮気オッケー』という意味ではなく、神楽と二人羽織りの状態でいることに対しての台詞だと気付くと、動揺を悟られないように、くるりと背中を向けた。

「あ、そ、そうけぇ。じゃ、神楽、そこで湯たんぽ役してろ。俺ァ上着、探してくるわ。たま、奥さんにミロか何か、あったけぇの淹れてやれ」

「かしこまりました」

「私もミロ、飲みたいアル」

神楽が呑気に手を上げ、銀時は頭をボリボリ掻きながら自室に戻った。とりあえず、ピンクのネグリジェ姿で『YES-YES枕』を抱いてスタンバイしている猿飛あやめを蹴り飛ばしながら、タンスに向かう。

「ああん、いきなり足蹴にするだなんて、それなんてエロゲー?」

喚きながらのたうち回っているのを素無視し、まだ洗い張りの仕付け糸も切っていない海老茶色の紬がタンスの底に眠っているのを発掘する。文字通りのタンスの肥やし状態で防虫剤の匂いがプンプンするが、これなら貸しても(そして、返してもらう機会を失っても)問題なかろう。
とりあえず仕付け糸を切るハサミが要るだろうなと、銀時は文机に向かう……途中で、猿飛が足にすがりついてきたので、首根っこを掴んで振りほどいた。

「きゃん! 激しいわ、激しすぎるわ、なんてアタシのツボを心得てるの?」

「おいこらメスブタ、いい加減にしねぇと、そのスケスケも一緒に切り刻むぞ」

「ええっ、そのハサミで服を切り刻むですって!? なんて大胆なの!? いいわ、そのプレイ、乗ってあげようじゃないのぉ!」

いい加減にしろと蹴飛ばしかけたところで、玄関の呼び鈴の音がした。慌ててその紬をひっ掴んで居間に戻ると、家主の代わりに応対に出ていた芙蓉が「銀時様、お客様のお迎えだそうです」と告げた。

「やべっ、俺の着物羽織ってたら、いらん誤解招くわ。おい、こっちのを」

「必要ありません。上着でしたら、お持ちしました。濡れたお召し物も頂いて参ります」

無精ひげのうえに月代は伸びて銀杏髷も曲がっている男がのっそりと顔を出した。いかにも浪人ふうの面構えであったが、シンプルな銀モールで丈の短い上着は、真選組の平隊士であるらしいことを示していた。

「参謀、お探ししましたよ」

男が珊瑚色の小紋羽織りを差し出した。日夜は数拍の間、男と銀時を見比べていたが、思い切ったように銀時の白い羽織から抜け出ると、受け取った羽織に袖を通した。

「参謀、指輪は?」

「え? ああ、あの……確か、坂田殿が」

何故、平隊士がそんなことを言い出すのか、銀時は一瞬訝ったが『鈴』代わりだったのならば、それを回収するのも当然のことなのだろう。尻ポケットに突っ込んでいたガラクタを引っぱり出し「これ?」と、差し出してやった。

「坂田殿、その、世話になった」

「おう。まぁ、前金貰ったから。あと、依頼人のプライバシー遵守もちゃんとオシゴトの一環だから」

「すまない、ありがとう」

ぺこりと一礼すると、日夜は男に連れられて出ていった。銀時は玄関が閉じられる音を聞いて数拍、惚けていたが、ふと思い出したように「たま、来い。髪結ってやる」と言った。

「さっさとしねぇと、ババァにドヤされるわ」

「はい」

「いいなーたま。銀ちゃん、ワタシの髪も編み込みとかしてヨ」

「おめーは自分で結え。面倒なら坊主にでもしやがれ」

甘えかかって来た神楽の頭を、銀時が張り飛ばす。それから一刻も経った頃、呼び鈴が鳴った。





「とある筋から聞いたんだが、銀時が人妻を連れ込んだそうだな。水臭いぞ銀時。人妻といえばまず、俺を呼んで貰わねば」

玄関に突ッ立って風呂敷包みを抱えている幼馴染みの姿に、銀時は偏頭痛がしそうだった。

「なんでオマエを呼ばなくちゃいけねーんだ、ヅラァ!」

「ヅラじゃない。桂だ! そして人妻と肉球が好きだ! 大好きだ! 人妻に肉球があったら、もっとハァハァもふもふできる!」

「オマエ、もういいから、真面目に攘夷活動しろよ。ハァハァもふもふって、それ痴漢だろ、犯罪だろ」

「武士たるもの、いついかなる場所でも人妻の肉球にハァハァもふもふクンカクンカすはーすはーできる心構えが必要だ」

「いや、要らないからね。武士にそんな心掛け、必要ないからね。むしろそれ変人だから、変質者だから。変態という名のサムライだから……あれ、サムライだったら『武士』でいいのか? いやよくねぇ! そもそも人妻に肉球なんかあるか!」

ぐいぐいと桂を外に押し出そうとするが、ふと階下の道路に白黒ツートンカラーの車を見かけ、ハッとして逆にその手首を掴み室内に引き込んだ。

「銀時、そんな大胆に迫られては、俺の心の準備が」

「誰が誰に迫ってるってんだボケ! だったら叩き出そうか」

罵りながらも、普段は神楽の寝床になっている玄関脇の物入れの引き戸を開け、下段に桂を蹴り込む。桂を追って来たのかと舌打ちしたが、その割には、車から降りてくる土方らの動きは妙に緩慢だった。引き戸を閉めて聞こえてくる、階段をあがってくる足音も駆け足ではなく、だらだら、という感じだ。桂追跡でなければ何の用だろうかと訝っていると、呼び鈴前でもウダウダ迷っている気配がした。

「はいはーい、どなた? ウチ、テレビないし、新聞はいらないし、インターネットも繋いでませーん」

わざとらしくそんな軽口を叩きながら、引き戸を開ける。

「国営放送の集金でも新聞の勧誘でもねぇ。万事屋、ちぃと人探し頼まれて欲しいんだが、その、うちのヤツ……なんだが」

妙に歯切れの悪い土方の説明を、山崎が「ポヤポヤした髪してて、頭の弱いバカひよこなんですけどね。参謀職で伊東っていうんですけど」と、補足した。銀時が首を傾げる。

「うちのヤツ? 参謀職? そういやぁ、さっき参謀って呼ばれてたな。でも、伊東じゃなくて土方でしょ? ああ、旧姓で仕事してんの、奥さん」

「土方さんの嫁は俺です! あんのバカひよこ、なに流布して歩いてんだ、コンチクショー!」

「つーか、日夜、テメェんところに居たのか!」

「え。とっくに帰ったぜ? テメェんとこから迎えが来て」

「迎え? 誰だ」

「誰って、えーと……名前聞くの忘れてたな。トラひげのこーんな髷の」

「そんなんで分かるか。こんの役立たずッ!」

土方がカッとして銀時の胸倉を捕まえるが、その途端に賑やかなメロディが鳴り響いた。この緊張感のないロリ声の電波ソングは、プライベート用携帯の着信音に設定されている、美少女侍トモエちゃんのテーマソングだ。土方は慌てて携帯を取り出して通話ボタンを押す。

『伊東参謀、お戻りになりましたよ。また例の調子で、どうやって帰って来たかも忘れたっていうんですけどね』

ほとほと呆れ返ったという口調で、吉村が告げる。

「万事屋んとこに居たらしいが、それは言ってるか?」

『いえ? そんなハナシはしてませんでしたよ』

「ウチから迎えを出したとか、そういうことは?」

『いいえ? ああ、着物はどこぞで着替えたらしくて、新しいお召し物ですよ。若草色の単衣に桜色の帯で』

芙蓉から借りた肌襦袢と青い単衣に、あの隊士が羽織らせた珊瑚色の羽織りの筈……と思ったが、中途半端な情報では事態をややこしくしかねないと考え、銀時は口をつぐんだ。第一、こいつらに居座られて、桂を匿っていることがバレても困る。

「まぁ、奥さんがけぇってきたってんなら、用はねぇな。帰れ帰れ。なんとかは犬も食わねぇ」

土方の厚い胸板をぐいぐい押すようにして、玄関外に追いやり、ピシャリと引き戸を閉める。

「なんだ、人妻はもう帰ったのか。せっかく、ハァハァもふもふクンカクンカすはーすはーパフパフむにむにしたかったのに」

物入れから顔を出したかと思うと、銀時の気も知らずのうのうとそんな戯れ言をほざく桂の頭を、銀時はサッカーのシュートよろしく全力で蹴り飛ばした。

「愛が痛いぞ、銀時」

「俺は全力で頭が痛いわ!」

「そういえば、銀時、これを」

桂が思い出したように風呂敷包みを差し出した。

「なんだぁ? 手土産か?」

受け取ってそれを広げる。銀時の表情が揺れた。中にあったのは、日夜に貸した筈の、芙蓉の肌襦袢と青い着物だった。

「これ、誰から言付かったって?」

「我が同志、沢唯君から言付かった」

「しらねーよ」

「ここしばらく不景気なせいか、思想的に過激なヤツが増えていてな。沢唯君も鬼兵隊に移りたいなどと息巻いて疎遠になっていたのだが、ついさっき、ひょっこりと集会に顔を出してきてな」

「こーんなトラひげのイカツイ奴?」

「いや、彼はどちらかといえば細身でつるりとした、うらなりびょうたんといったツラ構えだな。彼自身も、その荷物は同志から言付かったと聞いている」

「つまり、誰から預かったのか、はっきりしないんだな」

だが、誰であろうと攘夷志士に繋がっていることは確実だ。つまり、あの迎えは、ニセモノだったということになる。そして、その偽隊士が指輪を回収し、何事もなかったかのように屯所に帰されたということか。

「ウチで水浴びしたことも、忘れちまったのかな。なんだか厄介なことになってるようですよ、奥さん」

顧客のプライバシーを守ると誓いはしたが、さすがにこのまま口をつぐんでいるのはヤバい気がする。なにしろ、芙蓉の見立てによれば「とても人間とは思えない、冷たくて邪悪な悪意」が介在しているのだ。
しかし、それをご亭主ドノに告げれば、銀時も桂小太郎ら現役の攘夷志士と繋がっていることを説明するハメになる。すっかり狎れ合いの仲になっているとはいえ『白夜叉』に恩赦が下ったわけではないのだ。桂は未だに指名手配犯であり、それを庇えば共犯としてお縄を頂戴する羽目になるだろう。それは御免蒙りたかった。

「そうだ、ヅラ。そのうらなりびょうたん、気をつけろよ。もしかしたら、闇の組織みてぇな奴らに消されるかもしれねぇぞ」

「はっはっは。貴様がそんな中二病的な妄言を吐くとは思わなかったぞ。貴様も意外とお茶目さんだな、銀時」

桂は笑い飛ばしたが、銀時は妙な胸騒ぎを覚えてならなかった。





【後書き】銀時の背中の産毛をひたすらぷちぷちしたい! というワケのワカラナイ動機でそのシーンのために書き始めて、長らく放置していたもの。『拾い食いはするもんじゃない』と『枯れてもなお残るは 』の続きになります……が、拾い食いは(略)は、夏の話か……と気付いて、順序を入れ替え(爆)
なお、タイトルは薔薇の一品種ポール・ネイロン(Paul Neyron)の邦訳をお借りしました。
初出:2011年12月13日
一部訂正:同月15日
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壁紙:素材屋Miracle Page より。

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