枯れてもなお残るは【上】
「土方君が山崎君にキレて出て行っちゃった。まだ帰ってくる気配もないし、ひなは吉村君が面倒見てるから、ここに泊めて」
深夜、毛布を抱えて押しかけてきた『伊東日夜』に、篠原はやり場の無い苛立ちを覚えた。彼女が『伊東鴨太郎』であった頃は忠実な部下であった立場上、できるだけ穏やかに「自室の方が空調が効いているでしょう」「ここの床はコンクリートだから、寝にくいですよ」などと理屈をつけて追い返そうとしたが「小さい頃はよく、母上に折檻されて土間に放り込まれたりしてたから、これぐらい大丈夫。段ボール敷いたら暖かいし」などと言い張って、勝手に部屋の隅に転がってしまった。一見ぽやんとして頼りない、頭の弱そうな女だが、一度こうと決めたらテコでも動かない。なにせ、あれだけ疎まれても土方にしがみつき続け、周囲の大反対を押し切って子供まで産んだのだから。この頑なさはいささか病的だなと、篠原はため息を吐く。
「ザキにキレたって仰いますけど、実際のところ、先生とザキとでいつものように仲良く喧嘩して、それで副長を怒らせたのでしょう」
「僕は悪くない。山崎君の物分かりが悪いから、いけないんだ。女中の分際で」
「あー…なんとなく想像がつきますから、どっちが悪いとかは、どうでもいいです」
「問題はそこじゃないんだ」
「はぁ」
「土方君とだけでなく、他の誰とも、今日は会話してない」
「おやおや」
『それは現在のアナタの人徳の無さですねぇ』とは、敢えて言わないのが、篠原のせめてもの情けである。元々、地方の名家のボンボンのうえに文武両道をやたらひけらかすので僻まれやすく、子供の頃はいじめられっ子だったと聞いている。それを跳ね除けようと、更なるエリート街道を突き進んだ『参謀』時代のピークには、副長・土方と二分する大派閥の雄とも成り上がったが、その後、土方の嫁になったということは、いわば参謀派が副長派勢力の傘下に入ったことを意味しており、あえて『参謀』を支持する理由が失われた。そうなれば、所詮は利に聡いだけの烏合の衆。サッと散って誰一人、彼の傍らに残らなかったというわけだろう。
篠原としても、本音をいえば放り出したいところなのだが、付き合いが長いせいか妙に懐かれているので仕方がない。
「そういう日もありますよ」
そう慰めて、小さくなってしまった背中を撫でると、かつての武人としての体躯が嘘のような、生まれたての雛鳥を思わせる頼りない手応えだった。頭が弱いの物覚えが悪いの髪がぽやぽやしているのという理由で「ひよこ、ひよこ」と陰口を叩かれた挙句に、呼び名も「ひよ」になってしまった経緯があるため、余計に鳥を連想してしまうのかもしれないが、ともあれ力を込めると、骨が「クシュッ」と簡単に潰れてしまいそうだ。
このか弱さにほだされて、土方も自分も、イラつきながらも面倒をみてしまうのかもしれないな、とふと思った。業務上の「お守り」をさせられている武田観念斎も、か。
「だって、今日は……ああ、もう子の刻過ぎたから、昨日、か。僕の誕生日だったのに」
「え? ああ、そうでしたっけ」
「篠原君も忘れてたの? ひどい」
「ひどいと仰られましても」
知り合いの誕生日なんか、いちいち全部覚えているわけがない。むしろ、恋人の誕生日すらウッカリ忘れて「アタシのことなんてどうでもいいのね」などと詰られるのが、世の男性の習性というものだ。大体『誰がどこぞの女の股から何月何日に出てきたか』などという情報に、一体どんな価値があるというのか。例えそんなものを覚えていたとして、余計な出費が増えこそすれ、実生活において何一つ得することは無い。
何かプレゼントをくれと言われても鬱陶しいので、先回りして「副長が戻ってきたら、何かおねだりでもされるといいでしょう」と勧めると、案外素直に「うん、そうする」という返事が返ってくる。それから数拍、沈黙が落ちたかと思うと、すぐに寝息が聞こえてきた。
居つかれても厄介だから、早く副長を呼び戻さないとな、と篠原は頭を抱えながら、自分がベッドにしている長椅子に戻る。
「篠原君。起きたまえ」
やたら高圧的な口調に起こされ、篠原は反射的に「どうされました、先生」と口走っていたが、すぐにその声が、昨日押しかけてきた女ではないことに気付いた。一瞬、男だった頃と勘違いしたのも道理、そこに仁王立ちになっていたのは、その双子の兄、鷹久であった。
「ああ、おはようございます、兄上様」
「何故、君がソファで、鴨太郎が床で寝ているのか、説明してくれないかね」
「ご本人のご希望ですよ。副長が昨日から居ないからと、押し掛けてきたんです。私は自室に戻るように進言したのですが、お聞き入れ頂けなかったのです」
「そうなのかね、鴨?」
子供の頃は身体が弱く、現在も武芸はからっきしの文官だということだが、そこはさすが双生児。高飛車で横柄な態度は『鴨太郎』に瓜二つであった。いや、イジメを受けることも挫折を味わうこともなく、何の努力もせずにエスカレーター式に世襲制の高官職に就いた分、生まれながらのセレブ臭は鴨太郎よりも鼻持ちならないかもしれない。
毛布にくるまったまま、上体だけ起こした伊東は、その威圧感に押されながらも、辛うじてちょこんと頷く。
「駄目じゃないか、ちゃんと部屋の布団で寝なさい」
そこで「はい」という返事が返ってこないのは、単にすくんで声が出なくなったのか、それともその命令に従う気が無いのか。鷹久もその意図は図りかねたようだが、それ以上追及することもせず「昨夜は、寒くはなかったか?」と、一転して甘い声を出すと、その傍らに膝をつき、そっと抱き寄せて肩を撫でる。それが実の兄弟の仕草にしてはやけに艶めかしく感じられ、篠原はそっと目を背けた。
「本当は昨日、来てあげたかったんだがね。私も家を出られなかったのだよ。母上や……その、妻が引き止めるものだからね」
「昨日は、兄上も誕生日だものね」
「一緒に祝えたら良いのだけれどもね。代わりといってはなんだが、これをね」
鷹久が差し出したのは、いかにも豪華な翡翠の帯留めだった。貢がれ慣れているはずの伊東がギョッとして「こんな高価なものは受け取れません」と、突き返そうとしたほどだ。
「なぁに、これぐらい大したものじゃないよ。とりあえず朝食でも食べに行こうか。篠原君、これを鴨太郎の部屋に」
「はあ」
「兄上、起き抜けのこんな恰好で外出なんてできません」
兄の強引さに、伊東がささやかながら抵抗してみせたが「移動には車を用意させてるし、懇意にしてる店があるから、構わないよ。他の者に会わぬよう、女将に離れを用意させる」と、シレッと言い放つと、その折れそうな腕を掴んで連れ出してしまった。
そこは、料亭というよりは、出会い茶屋のような店であった。こじんまりした上品な部屋に、向かい合わせの膳。金銀の箔を散らした華美な襖向こうにも部屋があり、布団を敷くこともできる。
実兄と会うにしては妙な気もしたが、兄にしてみれば、上京するたびに素性の知れない女と逢っているという噂が立っては、立場上困るのだろう。そういう点では、このような店は野暮な詮索もしないので都合が良いのかもしれないと、伊東は己を納得させた。
「ひなも、連れて来れば良かったな」
「そうだね。誕生日の祝いと思って二人で予約をしたのだが、久しぶりに家族水入らずというのも、良かったかもしれないね」
家族水入らず、という言葉が妙に耳障りだった。確かに自分にとって兄は血を分けた兄弟で、陽向は娘だが……家族という用語には微妙に違和感があった。まるで、兄ではなく夫だとでも言いたげな。
「家族というなら、土方君も呼んでやらないと」
兄が嫌な顔をすることを期待して、わざとそう言ってみた。だが、鷹久は顔色ひとつ変えずに「篠原君から聞いたが、土方君は昨日から逃げ回っているんだろう?」とシレッと言い放った。
「私は何度も誘ってあげているんだが、なぜか土方君の都合がいつもつかないようだ。今日も、私が来ることは前もって土方君には伝えてあったんだがね」
もちろん、自分が煙たがられているのは良く知っていての発言だ。幼い頃から病弱で武芸はからっきしの鷹久だが、この辺りのツラの皮の厚さは、弟がバリバリ働いていた頃にも匹敵するかもしれない。世襲制の高官職に就くために、そのような世渡りの仕方を教え込まれて育ったせいなのだろう。
「土方君が不在なのは、別の理由もあってのことだと思うけど」
「そうかね?」
伊東にしてみれば、男らしく堂々と対峙して貰いたいのだが、この優男が『鬼の副長』をどれだけ酷くとっちめたのか、土方の後ろめたさは何年経っても拭えないらしい。
「それはそうと鴨、早く食べないと、冷めてしまうよ。冷たいものは冷たいうちに、温かいものは温かいうちに食べるのが一番だからね」
子供に言い聞かせるような口調だったが、伊東は見事に釣られて意識が膳の上に逸れた。本来はきっちりと朱塗りの椀を塞いでいる蓋が、微かにずらして被せてある。もちろん、片手が使いにくい伊東への配慮だろう。確かにこれでは、せっかくの吸い物が冷めてしまう。伊東がおぼつかない手付きで漆塗りの箸を取り上げた。
「少し、ふっくらしたようだね」
趣向を凝らした懐石はどれも舌に快く、伊東は食べるのに一生懸命で、鷹久がすぐ隣にいざってきたのに気付かなかった。鷹久の冷たい手が頬に触れて、初めて我に返る。
「肥った?」
「これぐらいの方が健康的でいいよ」
指を滑らせ、耳たぶまでくすぐってきたので、伊東は肩をすくめて箸を置いた。
「お戯れを」
軽く身を引いて逃れようとした途端に、強い力で引き寄せられた。あっと思う間もなく抱きすくめられ、唇が重なる。
「んむっ……い、けません、兄上……いけま……んっ」
あえぎながら胸を押すようにして抗うが、二度三度と繰り返しついばまれている内に、腕の力が弱まっていく。
「駄目……兄上、もう、いけません……お願い」
「嫌、とは言わないんだね。可愛いよ、鴨」
指摘されて、伊東の頬がカッと赤く染まる。確かに兄に触れられる事に対する嫌悪は無かった。むしろ、触れ合った部分がじんわりと心地よい熱を帯びていくような。だが、ここで流される訳にはいかない。
「嫌……じゃないけど、駄目です。そんなことをしたら……」
「土方君の元に居られない? なら、私のところに帰ってくればいい」
確信犯の笑みを浮かべて、喉元に吸い付く。痕がついてしまう、不貞の証拠が残ってしまう……逃れようと必死でかぶりを振ったが、唇から漏れる吐息は熱を帯びていくばかりだ。襟元が押し広げられ、肌襦絆がはだける。
「お願い、兄上、許して……お願い」
乳房を掴み出され、全身が感電したかのようにびくびくと痙攣した。しかし、小さな頂きの果実は、本人の意思とは裏腹に、高ぶって硬く膨らんでいる。鷹久は軽く己の唇を舐めると、その果実に吸い付いた。胸乳をねぶりながら、下腹部に手を滑らせると、拒むどころか脚を弛めて腰を擦り付けてきた。
「隣の部屋に、床を敷いてある」
囁きかけると、朦朧としながら頷いた。女一人抱きあげるだけの腕力も無いのか、鷹久は『弟』を抱きかかえたまま、ずるずると移動する。引きずられて帯も緩んだのか、布団の上に投げ出された時にはあられもない格好になっていた。
「兄弟なのに」
口先では弱々しくそう抗議するが、褥に染みを作るほどの露を下の口から吹き溢していては、説得力があろう筈も無い。
「土方君には、ちゃんと可愛がって貰えてるのかね?」
小さく首を振るのを見るまでもなく、飢えきっていたのは確かだろう。指先が花弁をなぞり、小さな芽に触れるだけで、長く尾を引く嬌声と熱い潮がほとばしった。
朝食を食べに行くと行っていたはずだが、伊東が戻ってきたのは正午過ぎであった。正門の辺りの庭で、野良猫の世話をしているふりをしながら待ち構えていた篠原は、伊東を捕まえると即、引きずるように資料室に連れ込んだ。俯き加減の伊東の首筋から、微かな石鹸の匂いを嗅ぎ取り「あちゃー…」と呟く。以前から薄々勘づいてはいたのだが、今回は隠しようもない。誰かに見つかる前に、彼女を保護して良かった。
「先生、お昼ご飯はどうなさいます? ここに運びましょうか?」
「要らない」
「お昼ご飯も召し上がってきたんですか?」
「食べてないけど、お腹すいてない」
「はぁ」
むしろ運動して腹空かせてるんじゃありませんか、という野暮なツッコミは飲み込んで「じゃあ、せめて紅茶でもお入れしましょう」と、椅子を勧めた。大部屋での雑魚寝が苦手でここをねぐらにしている篠原は、ポットやマグカップ、菓子などをちゃっかりと持ち込んでいるのだ。
ともあれ、このままフラフラと戻れば、目敏い上になんとかして伊東を追い出したい山崎が騒ぎ出すだろうし、日頃浮気をしまくっている己を棚に上げて土方とも大揉めに揉めること必定だ。二人が別れることにはやぶさかでない篠原だが、そのために伊東が責められ傷つく姿は見たくなかった。
「お茶請け、ハピネスターンで良いですか? ハピネスパウダー200%ですよ。それともケーキっぽいものがいいですか? チョコパイならありますけど」
わざと明るく話しかけながら、テーブルの上に菓子盆とカップを載せてやる。
「本当に食欲がないんだ」
「そうなんですか? お疲れでしたら、そこのソファで少しお休みになるといいですよ」
「いいよ、床でも。昨日もよく眠れた」
「僕が兄上様に叱られてしまいます」
ソファに強引に座らせて、毛布の代わりにコートをかけてやると、実際に疲れていたのか、あるいは緊張の糸が切れたのか、伊東はこてんと壊れた玩具のように身体を倒した。
それから一刻ほど経ったろうか、武田観念斎が困り果てた様子で資料室に顔を出した。
「参謀、こちらに……ああ、いらした、いらした」
「しっ、先生はお休みになっているんですよ」
篠原が人差し指を唇に当てて制し、武田も「あっ」と口を押さえた。
「いいよ。ちょうど今、目が覚めたところだから」
伊東が軽く伸びをしながら、気だるそうに身体を起こす。寝乱れた着物の衿が大きくはだけ、肩から胸元にかけて薄い胸乳がのぞいたが、武田は慌てることなく、ごく自然な物腰で視線を逸らしながら「すみません。実は、参謀にお届けものがありましたもので」と告げた。
「僕に?」
「贈り主は分かりませんが、つい先ほど、大きな薔薇の花束が。お心当たりはありませんか?」
「無い」
「兄上様からではありませんか? 確か、お誕生日でしたよね」
「それなら、兄上からはもう貰ってる」
篠原が一瞬、ギョッとした表情を浮かべたが、よく考えたら今朝、鷹久から帯止めを受け取っている。当然、伊東はそのことについて述べたのだろう。
「そうですか。とりあえず参謀のお部屋に置いていたのですが、陽向お嬢様がはしゃいで薔薇に突っ込んだところ、棘に引っかかれて大騒ぎになりまして」
「なんだって? あのクズ女中と子守は何をしているんだ。万が一、トゲが目に入ったら大変じゃないか。そうでなくとも女の子なのに、傷が残ったらどうしてくれるんだ」
それを言うなら、子育て放棄してるアンタの責任もあるでしょうよ、とは敢えて口に出さないのが、篠原なりの武士の情けだ。武田も『伊東日夜』の扱いには慣れているのか、そこにツッコむような野暮はしない。
「それで、危ないから撤去しようと、山崎君が言い出しましてね。でも、その前にせめて参謀ご本人にご覧頂くべきでしょう、と思いまして」
「あのスカタン、自分の監督不行き届きを棚に上げて、勝手に他人様宛てのモノを処分しようだなんて、許さん。武田君、案内したまえ。アイツを今度こそクビにしてもらう」
いきり立って喚く伊東に向かい「参謀、その前にお召し物を直して、おぐしを整えた方がよござんす」と、武田がおっとりと告げる。
「支度ができますまで、私は部屋の外でお待ちいたしますから」
「あ? ああ」
ようやく頭に血が巡ったのか、伊東が両手で衿を掻き合わせる。
胸元に咲く桜色の痣も、武田は見てみぬふりなのだろうか。いくら妻帯者で不倫に興味が無いといえども、そこまで高いスルースキルを持つとは信じ難い。
ぬぅ、武田め。ヤツは仙人か? と篠原は内心で呆れ返りながらも、それはおくびにも出さず「伊東先生、帯を締め直しましょう」と、囁きかけた。もしかしたら、武田も腹の中では、似たようなことを考えているのかもしれない。いや、篠原のように昔からの縁があるわけでもない武田の方こそ、伊東への恭順は上っ面だけのものに違いない。そう考えると篠原は、伊東の境遇が他人事ながら悲しくなってしまう。
「薔薇、どなたからの贈り物なんでしょうね、伊東先生。もしかしたら、副長かもしれませんよ。あのひと、素直じゃないから」
「まさか。土方君は僕のことなんて、何とも思ってないよ」
「そんなソッコーで否定しなくても……では、お端折りを整えますので、お召し物に手を失礼させて頂きますね」
着物を整え終われば、篠原はお役御免のはずだった。
これ以上関わるのは時間の無駄だし、厄介ごとに巻き込まれるのは遠慮したいが、それでも篠原は「お部屋までご一緒しましょう」と口にしていた。
伊東の自室兼執務室である参謀室で、愛娘の陽向は吉村の膝の上で、猫のように丸まっていた。幼女のぷくぷく膨れた愛らしい手足には、人気キャラの『シナティちゃん』や『メケチュー』が印刷されたカラフルな絆創膏が、何枚も貼り付けられている。
「こんだけ怪我をしたのに、お母さんの薔薇を捨てちゃダメって、さっきまで泣いて訴えてたんですよ。母親思いですねぇ。ようやく泣き疲れて眠ったところです」
伊東に子供を返そうと思ったのか、吉村が陽向を抱き上げようとしたが、陽向は離されてなるまじと言わんがばかりに、上着の端をしっかりと握り締めていた。
「こんな産み捨てネグレクト野郎なんて、母親でもなんでもないよ。俺が土方さんの妻として立派に育ててあげるから、デコなんてもう要らないのにねぇ。ほぅら、ママだよ、ひな」
そう言いながら、山崎が抱き取ろうとしても、陽向はすっぽんのごとく離れない。
伊東は、それを遠巻きに眺めていたが、ふと視線を巡らせて「この花?」と尋ねた。指差した先には、一抱えほどもある大きな壷に、それでも溢れそうな数の薔薇が色とりどりに生けてあった。どこかで見覚えがある壷だと思ったら、局長室の床の間に飾られていた『マヨネーズ王国の入り口』だ。
「僕、こんなに老けてないよ」
伊東が頬を膨らませたのは、誕生日の薔薇といえば年齢の数、という先入観があるからだろう。山崎がそれについて何かツッコもうとしたようだが、それを遮るように武田が「そうですねぇ。年齢には多いけど、百万本の薔薇にはいささか少ないですし、一体何本あるんでしょうねぇ」と、のんびりした口調で相槌を打った。
一方、篠原は壷に近寄ってしげしげと眺め、くるりと向き直ると「どうしてこの花が伊東先生宛だと分かった? メッセージカードとかついてた? これを包んでた包装紙や宅配の伝票は? 捨てたのか、バカ崎」と尋ねた。
「誰がバカ崎だ」
「今、返事したヤツ。で、包装紙はどこにやった?」
「そこのゴミ箱」
「手がかりになるかもしれないモノを、調べもせずに捨てたのか」
「デコのことなんか興味ないから、調べようとも思わなかったわ」
「万が一爆弾なんか仕込まれてて、参謀の身に何かあったらどうする気だったんだよ」
「全力で赤飯炊くわ」
「オマエ、本当に警察組織の監察かよ。これだから、お前は目がタレてるんだよ」
「目がタレてるのは関係ないだろ!」
「少なくとも、そのタレ目がフシ穴なことは確実だろ。こんな薄情でアホな連中に囲まれて、日常の世話を任さなければいけない先生の身の上が、心底不憫でならんわ」
いっそ、あの兄上様に引き取られた方がお幸せかもしれない、という言葉は飲み込み、篠原はくしゃくしゃになっている包装紙を拾い上げる。白地ベースに細かい絵柄が散りばめられた可愛らしい図案だが、店の名前は印刷されていない。宅配伝票が貼り付けられていないかとひっくり返してみたが、その痕跡すら無かった。
「ちなみに、荷物は誰が受け取った?」
「俺だけど? 赤い腹巻の飛脚のおあにいさんの受け取りにハンコも押したたけど、それが何か?」
「またバカ崎か。その受け取りの控えはあるか? つーか、そいつ本当に宅配業者だったか?」
「どういう意味だよ」
このアホにどこから説明すべきだろう、どこまで打ち明けていいのだろうと迷い「一体、どこの誰から届けられたんだろうな、と思ってさ」と、誤魔化した。
「確かに謎ですよね。どなたか分かりませんが、実に酔狂なことをなさる御仁ですね」
武田が感心したように呟くのを聞いて『酔狂な御仁』といえば、もうひとり心当たりがあるな……と篠原は思い出した。
「どうせあの兄上サマか、そうじゃなかったら、どっかに間男でもいるんじゃない? さっさと引き取ってもらって、出て行けばいいのに」
けろりと言い放つ山崎を一瞥して、篠原はさらに手がかりは無いかと薔薇の束を覗き込む。チカッと光を反射したように感じて目を凝らしたところ、内一本の花びらの中心に、金属の輪が引っかかっているのを見つけた。手を突っ込んで取り出そうとすると、ちくちくと棘が刺さった。この中にダイブした陽向は、かなり痛い思いをしたに違いない。取り出すと、それは指輪であった。ホワイトゴールドのような澄んだ銀色で、台座のないシンプルな形をしている。イニシャルやブランドネームは刻まれていなかったが、やや厚みのある甲の側には、紅玉や翡翠と思しき小さな宝石がいくつか散りばめられていた。
「ン? 何かあったのか、しの?」
山崎も覗き込もうとしたが、篠原は反射的にそれを握り込んで「なんでもねーよ」と押し返した。詳しく検分するのなら、監察方の古株である山崎と吉村に協力してもらうのが効率的だと分かっていても、篠原はそのためにふたりに頭を下げるのも、手柄を分け与える形になるのも嫌だった。彼らは『土方派』の急先鋒であり、土方の愛娘の世話をすることには熱心でも、伊東本人への忠誠など微塵もないのだから。その証にいつもは何かと聡い吉村も、今はまるで関心がなさそうにそっぽを向いて膝の上の幼女を撫でているだけだ。
「ふうん、そーお? なんでもないんなら、別にいいんだけどぉ。ねーぇ、土方さん?」
唐突に、山崎が甘ったれた声を出した。何事かと後ろを振り向くと、そこには憮然とした表情を浮かべた土方がのっそりと立っていた。片手に、薄紅の薔薇の一輪花束を提げている。
「そうなんですか、副長?」
「は? なんの話だ?」
つまり、また一から説明し直しだと思うと、篠原は頭が割れるように痛かった。
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