枯れてもなお残るは【下】


話は少し、遡る。
あの忌々しい兄上ドノからの脅迫まがいの襲撃予告電話を受けて、気の置けない馴染みの飯盛り女のところにでも逃げ込もうかと思ったが、春宿にいたことがバレたら余計に厄介なことになるに違いないと、辛うじて思い留まった。しかし、田舎から出てきて江戸では仕事一筋人生、プライベートの男友達なんぞほとんど居ないのが、土方十四郎の悲しいところだ。
ましてや、初冬の深夜。公園なんぞで時間を潰せる由も無い。考えあぐねた挙げ句、身を寄せた先は腐れ縁の万事屋であった。

「ナントカも食わない代物、抱えて来られても困るんだけどねぇ。たま、コイツに茶なんか汲まなくていい。奥に引っ込んでろ」

ソファにふんぞり返っている銀時の命令に、ミニ浴衣からすらりとした細い足をのぞかせた女中が、困惑したような表情を浮かべながら「お茶ではなくて、コーヒーですが、それもいけませんでしたか?」と、お盆を差し出した。長い髪をざっくりとツインテールにまとめている。

「お女中がせっかく淹れてくれたんなら、貰うぜ。身体が温まる」

「誰がてめーにやるか。俺が貰う。てめーはマヨネーズでもすすってろ」

子供のようにカップの取り合いになり、当然の結果として、熱いコーヒーは床と女中の膝にぶちまけられる。

「うわ、お女中、大丈夫か?」

とっさに、己の白スカーフを衿から引き抜いて差し出す辺りが、土方の女たらしたる所以だ。 一方、銀時は特に慌てるでもなく「あーあ」と呟いて、土方のスカーフをひったくった。どうせ慌てなくとも、機械人形は火傷なんぞしない。

「俺が床ァ拭いといてやるから、着替えろ、たま。奥の部屋にでも行け。着物、シミになったら取れねぇぞ」

「ちょ、てめぇ、ひとのスカーフで何しやがるんだ!」

「何しやがるも何も、今、自分で雑巾にしようとして出したんだろーが」

「ちげぇよ、床なんか拭くか! 返せコラ!」

今度はスカーフの引っ張り合いになっている野郎共を、女中こと芙蓉零號、通称『たま』が困惑した様子で見つめながら「着替えるって、何にですか? 前に銀時様が買ってくださったビキニですか?」と、尋ねる。

「この季節に水着はねぇだろ。お前は寒くないかもしんねぇが、見てるこっちが風邪ひくわ。他に服ねぇのか」

こっくりと女中がうなづく。

「ハァ? しこたま貯めこんでるくせに、着たきり雀かよ。テメェに払われた給金なんだから、いくらでもテメェのために使えと……わーったわーった。今度、一緒に呉服屋で見繕ってやっから、とりあえず俺の着物でもなんでも、羽織っておけ」

「今度とは、いつですか?」

「今度は今度だよ。絶対行くから、約束するから、さっさと着替えに行け」

「はい」

芙蓉がにこっと笑って、銀時の部屋に入っていく。

「いいなー可愛いお女中いいなー。どこぞのバカ崎に、爪の垢でも煎じて飲ませてぇよ」

「オイ。アイツに手ぇ出したら、ブッ殺すからな」

台所から雑巾を取ってきた銀時の険しい表情に、土方は「じ、冗談だよ。なにマジになってんの」と、引きつった笑いで誤魔化した。

「それとも何、あのお女中、オマエのコレなの?」

「なに? その小指。ムカつくんだけど。へし折っていい? その指、ぽっきりへし折っていい? ちげーよ、下のババァの箱入り娘なだけだよ。アイツに何かあったら、俺がババァに殺される」

「ふーん?」

芙蓉の髪型を変えさせたのは、かつてのお尋ね者だったことを土方に気付かせないための変装だ。それ自体は成功したもようだが、この女たらしは美少女を前にろくなことを考えていないようだ。
悪い虫がついても困るからそのまま部屋に閉じこもっててくれ、という銀時の親心(?)を露も知らず戻って来た芙蓉は、褪せた若葉色の作務衣姿であった。サイズがまったく合っていないため、ずり落ちないようにウエストを紐で締めている。

「俺の寝巻きじゃねーか。そんな格好で客の前に出て来るな、部屋に戻れ」

「いや、俺は全然気にしねーぞ」

「害虫の意見は聞いてねぇ! つーか、そんなヨレたヤツじゃなくて、新しいの出しゃあいいのに」

「これが長持の一番上にありましたので」

けろりと言い放ち、芙蓉はその格好で銀時の手から雑巾を取ると、代わって床を拭い始めた。俯いた衿の隙間から胸の谷間がのぞいている。

「ちょ、ちょっ、そんな姿勢、見えるから。ドキッ☆ポロリもあるよ状態だから。ダメ絶対、代わりに俺がやるからやめろ、ってかやめてくださいお願いします」

「でも、お掃除は私の仕事ですし」

「いいから。そ、そうだ。たま、ちょっと茶でも汲んで来い」

「先ほどは、汲むなと仰ったのに。おかしな銀時様」

小首を傾げながら芙蓉が台所に入るのを見送り、たっぷり冷や汗をかいた銀時は床を拭いながら「で? 一晩ぐらいなら、そこのソファにでも勝手に寝てりゃいいけど、その後はどうすんの?」と尋ねた。

「考えてねぇ」

「今日逃げたら、明日はもっと大きな勇気が必要になるぞ……って、昔、たけしが言ってたような言ってなかったような」

「誰だよ」

「オーグシ君、知らない? たけし。ファミコンソフトいっぱい持ってたんだぜ」

「知らねーよ」

土方がポケットを探って煙草の箱を引っ張り出すと、お茶を煎れてきた芙蓉が、テーブルの上の灰皿をそっと引いて、土方の前に置いた。そのそつない、しかし細かな気配りを感じさせる仕草に、改めて「いいなー」の声が漏れる。
ハイ持ってきましたホラホラ褒めて褒めてご褒美に撫でてチューして可愛がってと、床の埃を巻き上げる勢いで尾っぽを振りたくっているバカ犬、もとい「自称」カワイイ恋女房殿の暑苦しい挙動に、諦め半分すっかり慣れてしまっている自分が、我ながら悲しくなるほどだ。
もっとも、当の本人は己れの立場が女中だとは、露ほども認めていないのだけれども。

「おい、マヨラー。ウチの女中に手ェ出すなと言った筈だぜ?」

「怒るなよ。素直にいい女だって思っただけなんだからよ」

「よぉし、死にたいようだな。表に出ろ」

「待てや万事屋。とりあえず一服させろや」

紙巻き煙草のフィルターを噛み潰しながら、深々と煙を吸い込む。
たとえちぐはぐな恰好でも、美少女が着ればそのアンバランス加減すら愛くるしく見えるものなんだな……と、眺めているうちに、このウダツの上がらない白髪天パにこの女中が仕えているというのに、何故自分には頑固でウザくて喧しいタレ目と、頭が弱いくせにプライドだけ高いワガママひよこなんだよ。せめてどっちかマトモな乳ぐらいありゃいいのに、そこは仲良くマナ板と洗濯板だし。なのに、あの女中の今にもポロンとまろび出そうなケシカラン膨らみはなんだよ。畜生、吸わせろ、せめて揉ませろ、片方だけでもいいから。なに、このおっぱい格差社会。世の中不公平過ぎるだろ……等々、理不尽な怒りが湧いてきた。

「万事屋。勝負は、真剣でいいな?」

返事は要らない。ギュッと煙草を灰皿に押し付け、火を消した。

「銀時様、お友達と喧嘩はいけません」

銀時は白い羽織を脱いで黒の半袖シャツ姿になると、心配そうに見つめる芙蓉に脱いだ服を手渡し「喧嘩じゃねぇよ。その、ちょっとしたレクリエーションだ。おめぇは何も心配しなくていい」と、笑ってみせた。
少なくともコイツを戸外に引きずり出せば、これ以上の芙蓉との接触を妨げることができる。





「レクリエーションって言ってたな、万事屋」

「ああ、レクリエーションだ。だから、勝っても負けても恨みっこなしだ」

数合も打ち合っただけで、木刀も剣も折れてしまう勢いであった。折れた剣の柄でしばらく殴り合っていたが、一向に昂った気は収まらず、しまいに素手で掴みあってコンクリートの地面をのたうち回る。やがて息苦しくなって、意識が朦朧としてきた。

「けっ、過呼吸だ、未熟者。たかが芋侍が、この白夜叉に勝てると思うな」

それはお互い様だろと返したつもりだったが、みぞおちを蹴り上げられ、血の味がする痰が喉に絡みついて声にならなかった。吐き出そうと下を向くと、ぐっと胃が持ち上がるのを感じた。ヤバい、吐く……と口元を押さえたが、相手も地面に手をついてゲエゲエやっているのが、視界の端に見えた。

(そらみろ、お互い様だ。なにが白夜叉だ、天パめ)

ふと気が緩んだ次の瞬間、意識が暗転した。




気がつくと、すっかり昼近い時刻であった。いつの間にか、両人仲良く銀時の部屋の布団に放り込まれている。

「おまえラ、路地裏で寝ゲロしてたアルヨ」

「ここまで運ぶの、大変だったんですからね。大の男が二人してぐでんぐでんになってて」

神楽と新八が呆れ返った顔で見下ろしていた。
起き上がると、どちらも上半身裸であった。白い肌に無数に咲いた擦り傷の赤い筋や打撲傷の紫や黄色の痣が、実に色鮮やかだ。照れ隠しに「いやん、ぱっつぁんのエッチぃ」とボケたいところであったが、実際のところ、上着は吐瀉物でドロドロになっていたのだろう。頭もしたたかに打ち付けているらしく、ズキンと激しい痛みに襲われる。

「たまさんから、レクリエーションだって聞きましたけど、レクリエーションって、そんなに派手にやりあうモンなんですか? お互い負けず嫌いなのは知ってますけど、なにもぶっ倒れるまでやることはないでしょう」

「そうは言っても、男の意地ってもんがあるから、引くに引けないときだってあるのよ。な、フクチョーさん」

「お? おう、そうだな。男のプライドというか、そういう男と男の、な」

新八は「そんなもんかな」と小首を傾げつつも納得しかかったが、神楽は「寝ゲロが男のプライドかヨ、キタネーな」と、バッサリ斬り捨てた。
土方が往生際悪く「寝ゲロなんかじゃねーよ。寝る前に吐いたんだ。ちょっとストマックにニーキックが入ったから、中身が出ちまっただけだ」と弁解すると、銀時も「じゃあ、俺はキドニーにボディブローが入った! なぁ、ストマックよりキドニーの方がカッコよくね? キドニーって、どこにあるか知らないけど。肝臓だっけ? 肝臓がどこにあるか知らないけど」と、騒ぐ。

「ストマックでもキドニーでも、どうでもいいアル」

「二人とも見苦しいですよ。それよりも、汚れた服を洗濯してくれたたまさんに、お礼でも言ってきたらどうです?」

「お、おう」

そう言われて、そもそも芙蓉を巡って喧嘩になったことを思い出す。真夜中のテンション故の成り行きとはいえ、ちょっとおとなげなかったと頭を掻きながら布団から這い出すと、新八が白いTシャツを差し出した。

「どうぞ。こんなシャツしかありませんでしたけど」

見れば、胸元に汚い筆文字で「ビーチの侍」などとプリントされている。

「んだよぉ。コレ、バイク磨くのに使おうと思っておいてたヤツじゃねーかよ。まだウェスにはしてなかったから一応、着れるけど。でもよ、かーちゃんなんかがコレ着てたら、家庭内暴力の原因間違いなし、って代物だろーが」

「だから、こんなシャツしかありませんでしたけど、って言ったでしょう。せっかく探したんだから、贅沢言わないでください」

「大体、一枚は俺のとして、もう一枚、お前んじゃね? ぱっつぁん、シャツのサイズMだろ。フクチョーさん、着れるの?」

「全員分、同じLサイズでしたよ」

「あーそうけぇ」

不承不承受け取り、袖を通す。腕を持ち上げると、全身の関節がギシギシと悲鳴を上げた。

「いだだだだ」

「あ、そうそう。銀ちゃん、キドニーここアル」

不意に、神楽が銀時の背面、腎臓付近に左フックを叩き込んだ。ボクシングでは反則扱いになるほどの部位だ。銀時は「げへっ」と、奇声を発すると、その場にうずくまってしまった。





ようやく這うように居間に出ると、昨日のツインテールに作務衣姿のままの芙蓉がにっこりと出迎えた。

「おはようございます、銀時様。お食事になさいますか?」

起き抜けでメシはまだ要らないからオマエはすっこんでろ、と答えるつもりだったが、銀時と土方の胃がほぼ同時に「ぐー」と元気よく返事をした。昨夜、レクリエーションでカロリーを激しく消費したうえに、胃まで強制的に空っぽにしたのだから、当然といえば当然の生理現象だ。

「では、支度いたしますね」

「えーと。俺ァ目玉焼き、二個な」

「コレステロール過多だぜ、万事屋」

「たま、コイツは目玉焼き、イラネェってよ」

「オイ、勝手に決めるな。要らないとは言ってねぇだろ!」

芙蓉はニコッと笑って「お二人とも二個ずつ焼いてあります」と言い、甲斐甲斐しくテーブルに朝昼兼用の食事を並べ始めた。

「フォーク、使われますか?」

『米飯に味噌汁のメシで、何故フォーク?』と訝ったが、言われてみれば、銀時も土方も昨夜の格闘の後遺症か、指がガチガチに強張っていて箸がうまく使えなかった。子供のようにフォークとスプーンで米粒ひとつも残さず平らげると、続いてお茶が出された。湯のみを手にようやくひと心地ついた頃合いを見計らい、芙蓉が「銀時様とお客様のお召し物です。軽く干してから火熨斗(アイロン)を当てておきましたので、もう乾いていると思います」と言いながら、きっちりと畳んだ上着を取り出した。
「だったら、おめぇの服もとうに乾いてるだろうがよ」と、銀時が意地悪くツッコんでみたが、芙蓉は「お洋服は洗濯機で洗えますが、着物は洗い張りに出さないといけませんので、日にちがかかるんです」と、しらばっくれる。

「わーったわーった。と、ゆーことは、すぐに服が要るんだな? その薄汚い格好じゃ、昨日は店には出れなかったろ。今日でも呉服屋に行くか?」

「はい」

「いいなーたま、いいなー。銀ちゃん、ワタシも服買ってヨ。この服、もう胸の辺りがキツいアル」

「デブったんだろ。おめーなんざ、ビーチの侍Tシャツで十分だ」

「デブじゃないヨー成長期だヨー! ほらほら、オッパイ!」

「なにがほらほら、だ。恥じらいがねぇ内は、その鳩胸はオッパイじゃなくて、ただの脂肪の塊だ。ここ、大切だからな。テストに出るからな。たまもちゃんと記録しておけ」

その様子を眺めながら、ウチは女共の争いが絶えずにギスギスしてるのに、万事屋はほのぼのしていやがる。お女中だけじゃなくて全部、羨ましいや。なぜここまで差がついたのか、慢心、環境の違い……と溜め息を吐きながら、土方が無意識に胸元を叩く。当然のことながらTシャツには煙草の箱が入った胸ポケットなど無い。煙草どこにやったかな、と視線を巡らせて、テーブルの上の花瓶が目についた。薄紅色の花弁が愛らしい一輪挿しだ。

「薔薇か。悪くないな。ウチも買って帰ってやるかな」

ワガママひよこの誕生日をエスケープしたのも、うまく誤摩化せそうだし……と思ったが、その独り言を聞きつけた芙蓉が「この辺りではもう、薔薇は売られていません」と告げた。

「え?」

「今朝、屁怒絽様のお宅に回覧板を回しに行ったら、そのようなお話を。どなたか大量にお買い上げになったそうで、どの花屋でも売り切れだそうです。屁怒絽様のお店でも、これが最後の一本でした。お友達がいなくて可哀想だから可愛がってくださいと、頂いてきました」

「ワタシも一緒に行ったヨ。屁怒絽、最近は江戸も物騒デスネー怖いですネーって、言ってる本人のカオが一番怖いアル」

「物騒? なにか事件でもあったのか」

つい尋ねてしまうあたりは、土方の職業病だろう。

「殺人アル」

「なんでも、飛脚の方が河原で死体で見つかったとか。ひとりは全裸に剥かれ、ひとりは赤い腹巻姿の首無しだったそうです」

「飛脚か。あいつらは業務上、カネや重要書類を預かることも有るから、トラブルに巻き込まれやすいんだ。首無しってのがちぃと解せんが、どうやら俺らよりも奉行所の管轄みてぇだな。じゃ、お邪魔虫はそろそろけぇるとするわ」

土方が腰を上げようとしたところで、芙蓉が「この花で良ければ、お持ち帰りになりますか?」と、一輪挿しを差し出した。

「今、お包みしますから」

「せっかくアンタが貰った貴重な花なのに、いいのかよ?」

「お客様のおかげで、私は銀時様とお買い物に行くことになりましたので、せめてものお礼に」

あーハイハイ。そういえばそうでしたネ、ヨカッタデスネと、土方はガックリ項垂れた。つくづくこの世は不公平だ。花を包んでいる少女の後ろ姿を眺めながら『そういえばこの女中のツラ、どこかでみたような気がする』と首を傾げていると「手土産なんて要らねぇから、さっさと追い出せ」と毒づいた銀時に尻を蹴り飛ばされた。




そういう次第で屯所に帰って来たのだが、何故、その噂の薔薇の大群が伊東の部屋にあるのか、理解できなかった。聞けば、誰から贈られたか分からないというのだから、なおさら謎めいている。

「こんだけあるんだったら、わざわざ一本貰って来るんじゃなかったかな」

「そうですよ、コイツに花なんて要りませんよ。俺だって誕生日に花なんて貰ったことないのに。その壷の花ごと捨てましょう、そうしましょう」などと喚いている山崎を押しのけて、篠原が「それはそれで、ちゃんと飾っておきましょうよ。せっかくの副長のお気持ちですし」と訴えながら、黒目がちな大きな瞳でジッと見上げる。

「そういうもんか。しのがそう言うなら、そうするか」

過去には伊東の陣営からわざわざ引き抜いて監察方に据えたほどのお気に入りだったこともあるせいか、『鬼の副長』も篠原には多少甘いようだ。花瓶を取ってこようとする篠原を制すると、その一輪花束の包みを取り外して薔薇の壷に突っ込んだ。

「これでいい。これでコイツも寂しくないだろ」

「薔薇だけじゃなく、伊東先生も寂しがっておられましたよ」

「あー…そうだな。たまには日夜も可愛がってやるか」

「あ、その、今すぐって訳じゃなくて、今すぐだと取ってつけたようになりますから、えっと、多少ですね、時期をというか頃合いを見計らってからで良いかと」

なぜか篠原が焦っているのを不思議そうに見下ろしながら、土方が「いや、俺もすぐはちょっと。全身筋肉痛だわ、打撲傷だわで、足腰ガタガタだから」と答える。当の本人は、自室である筈なのに妙に居心地が悪そうに膝を抱えながら、部屋の隅でぼんやりしていた。寂しがっていたという割には、土方の姿を見ても笑顔が無い。
具合でも悪いのだろうかと気になったのも束の間、そこに九番隊隊長の二木二郎が「副長、ここにいらしたんですか。ちょっとよろしいですか」と、ファイル片手に駆け込んで来た。

「今朝、河原で飛脚が二名殺されていたという事件があったのはご存知ですか? ええ、町奉行所が調査に入ったんですがね。その内の一人が、飛脚ではなく攘夷志士の変装かもしれない、という報告が上がりまして。首無しの方なんですが、片腕に特徴的な入れ墨があったそうです」

「なんだって? それならウチの管轄だな」

途端に仕事モードに入ってしまった土方は、なおも絡み付こうとしていた山崎を乱暴に払いのけ、ついでに頭を引っぱたく。一同の騒ぎをよそに通常業務の書類を片付けていた武田が、筆を走らせながら「薔薇を届けて来た飛脚と、なんかの関係があるかもしれませんね」と、おっとりと呟く。色ボケていた山崎もようやく「あっ」という表情になった。土方の目が吊り上がる。

「どういうことだ? ザキ、詳しく話せ。検死の資料を取り寄せるから、吉村も来い。ちびは、しのが面倒みとけ」

土方らがバタバタと出て行く。先生の浮気がバレなくてよかった、副長が一段落して先生を構う気になった頃には、口吸いの痕も消えているだろう……と胸を撫で下ろした篠原の裾が、ちょいちょいと引かれた。

「わっこちょーらい、わっこ」

「わんこ? 犬? ああ、輪っかのことかな」

陽向に言われて、指輪のことを思い出した。多分、篠原が薔薇の中から取り出したのを見ていたのだろう。花を届けた飛脚と死体に関係かあるのなら、この指輪も貴重な手がかりのひとつになるかもしれないが、今さら差し出すのも気が引けた。かといって、子供の玩具にして誤飲されても困る。

「代わりにチョコパイをあげるから、輪っかはお母さんにあげようね。コレ、お母さんにハイって渡してくれるかな?」

「あーい」

陽向がぱたぱたと駆け寄り、指輪を差し出す。

「おかーしゃんにハイしたよ? チョパコちょーらい?」

「チョパ? あー…ハイハイ。伊東先生、ちょっとお子さんを資料室に連れて行きますね」

伊東は受け取った指輪を不思議そうに眺めているだけであったが、代わりに武田が書類の束を机でトントンと揃えながら「こちらのお留守番でしたら私が致しますから、どうぞ」と、背中で答える。

「お願いします、では」

壷の薔薇も証拠物件として押収されてしまうのだろうか、それだったら、あの一輪花束をわざわざ一緒にしない方が良かったのではないだろうか、と篠原はふと思った。だが、拾い上げようにも、土方が持ち帰ったのはどの花だったか、とうに見分けがつかなくなっていた。





【後書き】2009年12月頃に鷹久との絡みだけ書いて放置していたファイルを、サルベージして別の話を絡めてみました。後半の万事屋編は、ちょい膨らみすぎたかな。芙蓉が可愛過ぎるから仕方ない。
なお、タイトルはウンベルト・エーコーの『薔薇の名前』の原題の直訳の一部です。
裏ブログ初出:11年12月05日
当サイト収録:同月07日
←BACK

壁紙:素材屋Miracle Page より。

※当サイトの著作権は、すべて著作者に帰属します。
画像持ち帰り、作品の転用、無断引用一切ご遠慮願います。