拾い食いはするもんじゃない【1】
目が覚めると、白く煙った視界に黒い着流しの背中が見えた。行灯の灯りを頼りに文机に向かって、書類を片付けてるらしい。
「土方君、けむい」
鼻を鳴らして訴えると、室内を燻らせていた煙草をくわえたまま振り向いた。ひどく不機嫌な表情だったが、それでも伊東の視線に気付いて、まだ長いままの煙草を灰皿に押し付けた。
「やっと起きたか。子供じゃねぇんだから、なんでもかんでも勝手に口に入れるな」
「口に?」
「食ったろ、ここにあった包み」
言われてみれば。
小腹が空いて「何か食べるものが欲しい」とねだりに来たことを思いだした。部屋の主は居なかったが、代わりにお誂え向きに文机の上に、セロファンに包まれたゼリービーンズのようなものを見つけたのだ。書きかけらしいレポート用紙の隅に、まるで文鎮のように鎮座している。リボンで結んである装丁を見ると、義理っぽいプレゼントのようだ。
(土方君はモテるから、どっかの女の人に貰ったのかも)
そう思うと癪だった。ゴミ箱に投げ捨てたい衝動に駆られたが、それよりも空腹が上回った。捨てるのと同じことだよねと自分に言い訳して、リボンを解くと口に放り込んだ。ついでに、何の報告書なのかなと、好奇心に駆られてレポート用紙を拾い上げる。ドロッとした合成っぽい甘味が舌を刺激し、続いて舌の奥にえぐ味がまつわりつく。とっさに吐き出そうとしたが、唾すら出てこなかった。やがて口の中から胃の腑、そして全身へと灼けるような痛みが走る。激しい目眩がして、力の抜けた手指から紙がぱらぱらと落ち……意識が途切れたのだ。
今は何刻だろう? いずれにせよ倒れたのは八ツ時(午後三時)頃だった筈だから、かなり長いこと眠っていたことになる。
「あれ、おいしくなかった」
「だから、勝手に食うなというんだ」
「お菓子だと思ったんだもん」
「そりゃ、お菓子じゃねぇから……っていうか、その声と身体でその口調、やめてくれ」
「えっ?」
いつもと同じ口調なのに。声? そういえば自分の声が心なしか低いような気もする。不審に思って、己の着物の衿を覗き込んだ。違和感を覚えて、衿を押し広げ、もっと奥まで曝け出す。
「土方君、おっぱいが無い」
山崎よりは多少あったと自負している膨らみが、まったく失われている。だが、土方は面倒臭そうな口調で「そのようだな。下も見てみろ」と呟いただけだった。
「土方君、見たの?」
「検分はした」
「えっち」
「そういう問題じゃねぇ!」
恐る恐る、裾をめくる。
「パンツ、いつものじゃない」
「女物じゃ不便だろうから、とりあえずザキに買ってこさせた」
腿の間にじとっとした異物感を感じていたので、多少、嫌な予感はあったが、それでもその下着もめくってみる。目撃したものに衝撃を覚え、伊東は慌てて裾を押さえた。
「なんか生えてる」
「なんかじゃねぇ。元々あったもんが戻ってきただけだろうが」
そこで土方はふっと真顔になり「まさか男だった頃のこと、思い出してねぇのか?」と尋ねた。伊東がこくこくと子供のように頷き「どうしよう?」と首をかしげる。
「うっそだろ。中身は『日夜』のままかよ。目はどうだ?」
「メワ?」
「メワじゃねぇ。メワって何だ。目だ、目。見えてるのか、ちゃんと」
「え? うん」
そういえば、元々の伊藤鴨太郎は、目が悪くて眼鏡をかけていたんだっけ。その頃には、伊東もこうなったのはあのお菓子のようなものを食べたせいだと、察することができた。そして、あの報告書の文面を思い出す。
本来地球外生命体の為に調合されていた薬物が、販路拡大のため地球に持ち込まれる過程で、地球人により効力を発揮するよう改良されたものが押収品の中に発見され……そうだ、あの草稿は、このことを意味していたのか。
「ちょっ……素女丹だったのかい? なんだってあんな無防備に置いてるんだね。あの包装といい、どう見てもお菓子じゃないか」
飲んだ者を性転換させるという天人の違法ドラッグ、素女丹。
黄色い錠剤タイプや液状のものは過去にも確認されていたが、まさかこんな形状をしているとは。
「押収されて、うちに回されてきた時には既に、あの状態でビニールに入ってたんだよ。そんで、上方の鑑識に回そうと包みを解いて、何粒か送る準備をしに席を外してたら……これだ。まあ、人体実験する手間は省けたがな。少なくとも、お前が飲んだ奴じゃねぇってことは分かった」
そこに、障子がスッと音も無く開き「夜分、失礼します。一応、簡易分析の結果が出ましたけど」という言葉とともに、吉村が一礼した。
「結論から言うと、昔、山崎が飲んだのと同じタイプですね」
「ほう。だったら、解毒剤があったな。お前が入手してくれた……」
「ええ、ありましたが、山崎と沖田隊長が『男に戻るのは嫌だ』とか言って、全部捨てた筈です」
「んだと、あんのバカどもっ!」
「捨てたものに限って、どういうわけか後で、必要になるんですよねぇ」
まるで他人事のように、というよりもむしろ完全に他人事の吉村が、シレッと口走る。
頭を抱えてしまった土方の袖を、伊東がつんつんと引っ張った。
「土方君、おしっこ」
「はぁ? 俺はおしっこじゃねーぞ」
「君じゃなくて、僕」
「何だその自己紹介」
「自己紹介じゃなくて自己主張? おしっこしたいけど、あの身体でどうやってしたらいいのか分からない……というか、あれ、キモチワルイ」
「分からないとかキモチワルイっていっても、元々ついてたもんだろうが」
「覚えてないんだもん」
土方は絶句した挙句、ようやく再起動するや「吉村、頼む。コイツ、厠に連れて行ってやってくれ」などと、部下に押し付けようとした。
だが、当然のことながら「吉村君じゃ、やだ」「アンタの嫁でしょ」と、双方から速攻で拒絶されてしまう。
「どうしろっていうんだ。立ちションの介添えか?」
「土方君、漏れる」
「ええええええっ、ちょっ、堪えろよ」
「まぁ、洋式便所なら、座った状態でも用を足せますよ。男子トイレは和式ですけど……女性用に洋式トイレ、参謀室側に一基作りましたよね?」
笑い死にそうにしていた吉村だったが、さすがにかわいそうになったのか、そうアドバイスしてやった。
「あ。そうそう。あのクスリ。見た目はかなり変わってますが、成分自体はかなり旧式のものですから、一日二日で元に戻ると思いますよ」
個室から出てきた伊東が「土方君のとなんか違う」「ふにゃってしてて変」「トイレットペーパーで拭きにくい。でも拭かないとばっちい」「パンツごわごわしててオムツみたい」等と延々文句を言うのを聞き流して、とりあえず副長室に連れて帰る。
「男に戻ったんだったら……身体は多少縮んだままだとしても、中身ぐらいは元に戻るだろうと思ってたんだがな」
『元の中身』というのは『伊東鴨太郎』なるオリジナルの人格のことだ。
伊東が、日夜(ひよ)という名で土方の側に置かれているのも、その元の人格に戻るまでの暫定措置だった筈だ。本来はライバルとして認識し、お互い「ブッ殺してやる」と罵りあっていた仲だったのだから、例え身体が性転換しようと多少頭が弱くなろうと、放っておけば良かった筈だ。そこを憐れみを覚えて「一時的になら」と保護したのが、そもそものボタンの掛け違いだった。
その結果、全てを忘れて真っ白な状態になっていた伊東は、初めて見たものを親と思い込む雛鳥のように、土方に懐いてしまったのだ。土方は、その違和感を「日夜は、元の鴨太郎とは別モノ」と割り切ることで誤魔化すしかなかった。
「元に戻ったら、捨てられちゃうの?」
不安そうに見上げながら尋ねる姿は、まるで幼児だ。
幼少の頃から、母親に『要らない子』として扱われ続けたことも、潜在意識下で影響しているのだろう。
「戻ってねぇだろ」
「だから、例えばの場合」
「仮定の話をしてもしゃあねぇが……そうだな、戻ったら捨てられるとは感じねぇだろ。お前のほうだって、むしろせいせいしたとでも思うだろうさ」
「その時に、僕がどう感じるかじゃなくて、君が実際にどうするか、ってこと」
「そりゃあ……放り出すだろうな。そういう約束だしな」
「だからだよ」
「あん?」
「だから、戻らなかったんだ」
そういう問題じゃないと思うのだが、伊東の内心ではそれで合点がいったらしい。土方の腕にまつわりついて「戻らなくて良かった」と呟く。
「オイオイ、野郎の身体で懐くな、暑苦しい」
「山崎君なら、男でも女でもいいんでしょ?」
土方は口をぽかんと開けた。
言われてみれば、確かにそう言っていた。土方は、山崎が「女になったから、嫁にした」というつもりは毛頭ない。それどころか「男の頃から押しかけ女房状態で、えらい迷惑していた」というのが限りなく本音であり、男だろうと女だろうと、山崎に対する待遇を変えたつもりはない。肉体の変化と共に身分も『嫁』に昇格したつもりでいるのは、山崎本人だけだ。
『女になっている間だけ』という約束の伊東とは、そこが根本的に違った。
山崎も伊東も、その点でお互いの立場を羨んでいるようだが、どっちが上ということはない。お互い、ただの無いもの強請りだ。
「あー…まぁ、そうだな。その、俺はどっちもイケるクチだったからな」
「じゃあ、いいじゃないか」
「いいのか? まぁいいか。今日はもう、おとなしく寝ろ」
そう尋ねながら副長室のふすまを開くと「いいわけないでしょう、このニワトリ頭が」と、剣呑な声が投げかけられた。見れば、山崎が副長室の真ん中に正座をしている。また厄介な奴がシャシャリ出てきやがったな、と思うと土方の頭が割れそうに痛む。そこを、よせばいいのに伊東が「山崎君、パンツ買い直してきて。これ、100円パンツ? ごわごわして、やだ」と言い放った。
「ちょっ、デコっ! アンタ戻ってくるなりそれですか!」
「だって落ち着かないんだもん……ああ、でもすぐ脱ぐから要らないかな? ヤッたら戻るかもしれないって」
「ヤッたらって、おまっ、男同士だろうが」
「土方君、どっちでもいいって」
「てんめぇ、いい加減にしろっ!」
カッとした五尺五、六寸の山崎(女)が、五尺ニ、三寸ほどに縮んでいる伊東(男)を羽交い絞めにして、拳骨をこめかみにぐりぐりと当てる。伊東が「痛い痛い、土方君助けて」と喚き、山崎も「土方さん、コイツ男ん戻ったら放り出すって約束でしょお? なんだってまだ飼ってるんですかっ!」と、噛み付いてくる。
「日夜、お前一応、今の図体は男なんだから、テメェでなんとかしろ」
「山崎君が凶暴ゴリラだから、無理ィ」
「誰がゴリラだぁ! ゴリラは局長だけで十分だ!」
「痛い、本当に痛いってばぁ!」
女の身体ではもう見慣れて違和感は感じないが、さすがに伊東がオトコの身体でべそをかいている姿には、偏頭痛を覚えるしかない。
「お前らホント仲いいな……ザキ、そのまま夜伽でもしてやれ」
「どこをどう見たら仲いいんですか。全力でお断りします」
「僕も、土方君じゃなきゃ嫌だ」
「いや、デコは男んなったんだから帰れって!」
「やだー…土方君が、居ていいって言ったもん」
あまりにぎゃーぎゃーと騒がしいので、土方がついに堪忍袋の尾を切らした。長財布だけ懐に突っ込むや、まだ組み合ったままの二人を残して立ち上がる。
「おまえら、そのまま仲良くそこで遊んでろ。俺ァ、よそに泊まる」
ええーっと仲良く喚きながら、すがりつこうとする『自称嫁』ふたりを睨みつけ、素早く障子を後ろ手に閉めた。障子の向こうで「オマエのせいだ」「僕は悪くない」と、派手に責任のなすり合いを始めるが、もう知ったことではないと廊下を足早に渡る。
ふと、吉村が檜の柱にもたれるように立っているのに気付いた。多分、この騒ぎを聞きつけて、土方が逃げ出すのを待っていたのだろう。
「ご苦労様です。消去法で、俺が夜伽をいたしましょうか?」
笑いを噛み殺しながら、そう提案されたが、土方は「いや」と片手を振って見せた。
「今日はひとりになりてぇ。お前と一緒だったと聞いたら、あいつらがまた逆上するだろうし……かといって、この時間じゃ、妓楼も店仕舞いしてるだろうし」
「おやおや。相当参ったようですね」
「覆面パトのキーくれや。クルマで寝る」
「はぁ」
単にどこかにごろ寝をしたいなら、わざわざクルマじゃなくても応接室のソファでもどこでも、屯所内になんなりとスペースがありそうなものだが……そう訝りつつも、吉村は言われるままに腰のベルトにかけた鍵束から、1本のキーを抜き出して手渡した。
「監察で使ってるクルマだな?」
「ええ。三号車です」
「適当なところに泊めて寝てる予定だから、寝過ごしていそうだったら、無線で呼びかけてくれ。スイッチは入れておく」
「携帯は?」
「部屋に置いてきた。携帯なんざ持ち歩いたら、ビービーうるせぇだろ。あいつら、業務用の携帯にまで、つまんねぇ用事でかけてきやがる」
ああ、それでか、と吉村は妙に納得した。
例え拗ねて一人寝をしてる間だろうとも、緊急事態が起これば、いつでも連絡が取れるようにしておきたいのだろう。仕事熱心というべきか、単に貧乏性というべきか。
「灰皿は使ってくれていいですよ」
せめてもの思いやりでそう言ってやると、土方は「助かる」とだけ答えて、指先で自動車の鍵をくるくる回して弄びながら、足早に立ち去った。
残された嫁二人であったが、罵りあうのにも飽きて、伊東が唇を尖らせてふいっと副長室を出てしまった。
山崎はしばらくその場に座り込んでぶつぶつ言っていたが、やがて重い腰をあげて参謀室に向かった。案の定、本来の部屋の主である伊東は居ず、代わりに愛娘の陽向(ひなた)が、部屋一面に男ものの着物を散らかして遊んでいる。
「ひっ……ひなっ! なに、これっ!」
「ママ、あのね。ぱぱしゃんのぱんつ。おかーしゃんがさっき、だしてくえました」
「デコめ、なんで子供ほっぽらかして、パンツなんか出して! あんのバカひよこっ!」
非常に紛らわしいことだが、土方の娘・陽向にとって、産みの母の伊東は『おかーしゃん』で、育ての母の山崎は『ママ』であるらしい。
「あのね、これは土方さんのパンツじゃないよ」
山崎がそう言い聞かせながら、陽向が振り回しているブリーフを取り上げる。確かに土方もブリーフ派だが、これは伊東が男だった頃に履いていたものだろう。
陽向がそのブリーフ目掛けて、ぴょんぴょんと跳んだ。さすがは土方(と、元は土方と肩を並べる武人であった伊東)の血を引くだけに、身体能力がやたらと高い。はっしとパンツに飛びついて、ぶら下がってしまう。
「やーん、ぱんつぅー。ぱんつコーテーをオーエンしゆのー」
「ぱんつ皇帝? 誰それ。そんなの応援しなくていいから。パンツはないないしなさいね、いい子だから」
力ずくではどうしようもなく、なんとか宥めすかしながら引っぺがすと、伸びきったブリーフを開けっ放しの行李に放り込む。
「ママもパンツかぶゆの?」
「『も』って誰? パンツはね、かぶるんじゃなくて、履くものだよ」
「だって、シンシはパンツかぶゆんだって」
どこの紳士がパンツなんぞかぶるっていうんだ、誰だ、変態紳士とか要らんこと教えたのは。むくつけき野郎どもがたむろする屯所で育てられているのだから、しょうもないことを覚えてしまうのは避けられないとしても、オンナノコなんだから、せめてもう少し、こう……と、山崎は偏頭痛を覚える。
せっかく、土方譲りの美貌に育つことが期待される愛くるしい顔立ちなのに……伊東譲りの頭の良さが、悪い方向に開花しているとしか思えない。
「いいから、今日はもう、いい子でねんむするんだよ?」
「にぃにがいないから、いやー」
「よしは……さっきまで副長室に居たんだけどね。どこに行ったのかな……いい子で寝てたら、おやつあげるから」
「ほんと? じゃ、ねゆ」
餌に釣られやすい性格は誰に似たのか、陽向はパンツの山を掻き分けて布団を発掘すると、その中に潜り込んだ。部屋の片付けは……明日の朝早くにでもしようか。ドッと疲労した山崎は、陽向の隣に身体を横たえた。
ふっと意識が途切れて戻ると、朱色の欄干と金箔を押した蒔絵の派手な天井が視界に入った。遊廓だろうか、とぼんやりと思う。それと、自分を呆れたように見下ろす隻眼の男。金銀の刺繍を施した男の着流しも、遊女のそれのように煌びやかであった。
「目を覚ましたか」
「ここは?」
「押しかけておいて『ここは?』とはご挨拶だな。覚えてないのか」
そう言われて、ぼんやりと思い出した。下着を履き替えて……ああやっぱり安物とは肌触りが違うなと納得した……その感触を『懐かしい』と感じて、やっぱり自分は元は男だったのだろうなと、思い知らされる。さらに、このまま男の状態が続いたらどうなるのだろうか、やはり放り出されるのだろうか、などと漠然と考えているうちに、込み上げてくる不安に耐え切れずにパニックに陥って……そこまで記憶を手繰り寄せた途端に、頭の奥に刺すような痛みを感じた。
それと共に、爆発的に膨れ上がるイメージの洪水と、記憶の津波が押し寄せてくる。
「君は高杉……いや『梅さま』とお呼びすべきなのかな」
「好きにしろ」
ここは鬼兵隊の空中戦艦の一室で、ここに居るのはその主の高杉晋助、その隣には高杉の参謀的な……武市変平太の姿もあった。
「僕は……?」
「伊東鴨太郎、だろ。それとも日夜か?」
「ひ、よ……?」
聞き覚えがあるような無いような、その名に首をかしげていると、高杉は「戻ってるな」と、紫煙を吐きながら武市に話しかけた。
「そのようですな。高杉様の変名を思い出す時点で、術がほぼ解けていると言って良いでしょう」
「術? 貴様ら、僕に何をした」
カッとして剣を抜こうと反射的に腰に手をやり、帯刀していないことに気付く。眠って居る間は刀を外しているのが常識なのだが、枕元に視線を走らせても大小が置かれてないことに途惑う。
「最初から、刀は持ち歩いていなかったぜ。そのひ弱な手じゃ、脇差すら満足に振り回すこともできないだろうがな」
高杉がそう言い放ち、おもむろに己の煙管を、吸い口を伊東に向けて差し出した。
「僕は、煙草は吸わない」
「一服しろ。落ち着く」
「吸い差しじゃないか」
しばしの間、ついさっきまで高杉の唇に挟まれていたその吸い口と高杉本人を見比べていたが、やがて不承不承それを受け取った。口許に寄せると、煙草とは異なる甘ったるい匂いがする。
「麻薬?」
それに対する返事は無い。
いわば肯定のサインなのだろうが、それを理由に拒絶することはできない空気も孕んでいた。なにより、怖気づいたと思われることは、伊東のプライドが許さなかった。思い切って口をつけ、熱せられた空気を吸い込む。
「静かに、肺の奥に溜めるとよろしい。無理に吸い込んだり、怖がったりすると、咳き込むことになりますよ……それで少し、息を詰めて」
武市がそう説明するのが聞こえる。だが、その声は次第に遠のいていった。
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