きたのくにから【4】
今度は迷子にもならず、もちろん高速で走る全裸の老婆に遭遇することもなく、一行は無事に開園前に到着した。
「まずは白熊とアザラシの水槽だね。東口から入って……ちょうど、園の真ん中ぐらいか」
「くまー! くまー! がおー!」
「うん、まずは白熊だね。ひな、次めくって?」
入場を待ちながら、陽向がパンフレットの園内地図を広げているのを、額を付き合わせるようにして伊東が覗き込んでいる。山崎はそれを見て、呆れた。
「母娘というより、まるで子供がふたりいるみたいですね」
「あいつぁ、ちいせぇ頃そーいうのに連れて行ってもらったことがねぇんだとよ。お袋さんが兄貴にかかりきりだったとかで」
苦笑いを浮かべながら、土方が懐から煙草を取り出そうとする。山崎はその袖を引いた。
「園内禁煙ですって、土方さん」
「園の中じゃないだろ」
「ここも敷地内じゃないですか。それに、ひなの前ですし」
土方はちっと舌打ちしながらも、割と素直に手を引っ込めた。
さすが宇宙的にも有名な動物園らしく、続々と開園待ちの人が集まって列を成して来たせいもある。ふと見た入り口ゲートには「央国星ハタ王子御来場歓迎」という垂れ幕が下がっていた。一瞬ギョッとしたが日付けをよく見ると、どうやらバカ王子が訪れるのは来週らしい。日程が重ならなくて良かった。そうなれば、警備は手厚くなるだろうが、混雑も増してかなリ厄介なことになったに違いない。
「中村兄弟は、ちゃんと見張ってくれてんのか? ああ、居た居た」
ぺりぺりと慎重に白いラッピングフィルムを剥がすと、下地が現れる。乱暴に扱うと、糊が車体に残ってしまうのだ。
「この窓のステッカーも剥がすのか?」
「よろしゅう頼んま」
熊のような大男が、その太い指に似合わず、器用にトモエちゃんシールをめくる。
「しかし、ノンビリこんなことしてて、大丈夫なのか?」
「動物園に行く予定なのは、分かってま……あの護衛とやらも、さっき追い抜きをかけて来たときに打ち込んだ発信機見たら、ちゃんと動物園についてってはるようやし」
やがて、スイカラインのシルバーのボディが鮮やかに蘇った。付け替えやすいように特別加工していたナンバープレートも、ダミーを外してやる。
「さぁて、仕事にとりかかりまひょ」
痩身の男が己の顎に指をかけた。こちらも変装用のマスクをしていたらしく、べろりと皮がめくれる。だが、その下の顔も素顔ではなかった。
白熊とアザラシは動物園のウリだけあって、開園直後だというのに見物客が多かった。
「みえましぇん」
人込みの中でぴょんぴょんと飛び跳ねたり、隙間を探そうとしたりするが、オトナの方が夢中になって覗き込んでいる状態では、なかなか難しいようだ。
「土方さん、肩車してやってよ」
いつもなら、山崎がおんぶやだっこをしてやるのだが、今回はデジカメやビデオの撮影に忙しいらしい。
「あ? しゃあねぇな。ほれ、ひな、来いや」
抱き上げて、ヒョイと肩に乗せた。
肩車にすると着物の裾が割れてパンツが丸見えになるので、片側の方にちょこんと座らせたのだが、いくら土方の肩幅があろうと肩車よりは不安定になる上に、視界が地上六尺を軽く超える。さすがに怖がるかと思ったが、度胸があるのかキャッキャッと声を立てて喜んでいるようだ。
「しろくましゃーん!」
「おう、白熊だな」
ほんの目と鼻の先まで白熊がのそのそと近付いてくる。ガラス越しなので、実際に襲い掛かってくることは無いと分かっていても、その大きな体躯に圧倒される。白熊が前足でガラスを掻くような仕種をすると、おおっという声が沸き上がった。
「おてて、おっきいね、パパしゃん」
「ああ、でけぇな」
「おくち、おっきいね、パパしゃん」
「ああ、でけぇな」
いつまでも眺めていたそうだったが、きりがないので伊東と山崎を促して、ガラス壁から離れた。
そのとき、土方の野生の勘が人混みの中に違和感を感じた。ほぼ全ての人が白熊に視線を注いでいる中、どこか違うところを見ている輩がいたような。もっと言うと、自分達が見られていたような。もちろん、護衛の中村兄弟の視線なのかもしれない。彼等の任務からすれば、それは当然のことだろう。
ぐるりと視線を巡らせたが、それらしい人物は見当たらなかった。
中心部からやや離れたマイナー動物の檻のあたりは、道幅も狭く人通りも少ない。セキュリティ面で多少の不安を覚えつつも、陽向が行きたがるのだから仕方ない。
「あっち、くましゃんがいましたー」
不意に、陽向がそう言い出した。
山崎が「あ? ハイハイ、くまさんいたねぇ」と、受け流そうとしたが、なぜか「しろくましゃんちがう」と言い張る。
「あぁ、白熊じゃなくて、ヒグマか?」
土方がそう呟き、伊東は「ヒグマのオリは、まだ先の筈なんだがなぁ?」と、首をひねる。
「早く見たいのかい? じゃあ、行こうか」
山崎がそう言って、幼子の手を引いて促す。
「オリじゃないの。そとにいたの」
「脱柵!?」
「だったら、とっくに騒ぎになってんだろーが」
「くましゃん」
陽向はきょろきょろと周囲を見回す。
山崎が「クマしゃんはいないけど、ほら、鳥さんだよ? キレイだねぇ」と言って、陽向の気を逸らそうとした。
「お。クリスマスチキン」
「パパしゃん、ちがいましゅよ。キジさんでしゅよ。いぬしゃんとサルしゃんといっしょに、きびだんごもらうの、えほんでみまちた」
「キジも食用だろうが。ほれ、こっちもクリスマスチキン」
「パパしゃん、たべちゃらめぇ! かわいそう!」
「土方さん、アンタ、子供の情操教育に良くないから、黙っててください……ひな、泣いちゃダメだよ? ほうら、キレイな鳥さんだね。こっちがオスで、こっちがメスだよ?」
山崎が宥めながら、半べその陽向を促す。
「メスの方が地味なんだな」
「動物って一般的にそういうモンでしょ? 孔雀でもオスの方がキレイ……って、それ、なんかのアテツケですか!? チクショウ、アンタに比べりゃ、どーせ俺らの方が地味だよっ!」
「山崎くん、俺ら、というのは僕も含めているのかね?」
「よせよせ、モメるな。子供の情操教育とやらに良くねぇだろーが」
「キレイなパパしゃんと、おかーしゃんとママでしゅね。ひなはどこでしゅか?」
そう言われれば、オスが1匹にメスが2匹だ。互いに我関せずの態度で地面を突ついている。キジの雛は居らず、代わりにどこからか入り込んだらしいスズメの子が、餌箱の中で遊んでいた。
どっちが糟糠の妻で、どっちが若い愛人かなと、土方はふと思い付いたが、口に出して言えば「どうせ、俺はトウがたってますよ」「僕は愛人じゃなくて、正妻のつもりだ」等とモメること必定なので、あえて飲み込んだ。
「ほれ、ひな。こっちにもクリスマスチキン」
「だーかーらー! 土方さんっ、違うって! これホロホロ鳥でしょ? クリスマスチキンは七面鳥でしょうがっ!」
「ママ、クリスマスはケンタッキーでしゅよ」
「そういえば、英語で七面鳥を意味する『ターキー』という語は確か、ホロホロ鳥と七面鳥を混同したことに由来するそうだよ。ホロホロ鳥はアフリカ産なのだが、トルコ経由で伝来したために、トルコを語源とした『ターキー』と呼ばれて、それが七面鳥の名になったとか」
「ターキー? ターキーは、ケンタッキーでしゅか?」
「デコーッ! 子供が混乱するようなこと言わないでぇーっ!」
デコのアホ、過去の記憶だのなんだの、脳内あちこち吹ッ飛んでいるくせに、なんでこう、余計な蘊蓄だけは残っているんだろ。いちいちツッコむのも疲れるわ。
地面に両手をついて『失意体前屈』状態になっている山崎の背を、陽向が「ママ、大丈夫でしゅか?」と撫でる。
「ほれ、こんなとこで引っ掛かってたら、全部見れねぇぞ」
「くましゃん」
「そうだな、クマも見なくちゃ、なんだろ?」
一行は、ようやくヒグマの檻に辿り着く。
「ほら、熊さんだよ」
「どうしたんだい、ひな。後ろばかり見て。中村のおじちゃん達はちゃんとついて来てるから、大丈夫だよ?」
「んー…くましゃん、どこかにいっちゃいました」
どうも陽向がしつこく呼んでいたクマは、目の前のホンモノのクマではないらしい。
「どっかに行ったって。いるだろ、目の前に。それともアレか、見えないお友達のクマバージョンとかいるのか?」
首を傾げながら、土方は山崎に尋ねる。
「んーいるかもしれませんねぇ。動物園ですし」
「ちがうくましゃんでしゅ」
陽向はじれったそうに足をバタつかせて主張する。
山崎は「やっぱり、見えないお友達系なんですかね?」と眉をひそめるが、土方は考えるのをやめて「人間はぞっとしねぇが、動物だったらほかの人の倍だけ動物が見れるんだから、得なのかもしれねぇな」と、ポジティブに決めつけた。
ただでさえ、怪しいオッサンだの片目のスイカラインだのがチョロチョロしているというのに、これ以上、うっとぉしいモノを増やしたくない。
「それとも、違うクマが見たいのかな。マレーグマとか、ツキノワグマとか?」
「なんでしょうねぇ。それにしても、あのパンツの時といい、ぬいぬいを買ってもらったことといい、ひなは相当クマさんが好きなんですねぇ」
母親ふたりは動物園のパンフレットを覗き込み、仲良く首を傾げている。
「くましゃんもしゅきー」
「も、ってことは他に好きな動物さんがいるのかな? ゴリラしゃんかな?」
「ゴリラだったら、家で毎日見てるだろ」
サラッとツッコむ辺り、土方も友達甲斐が無い。そして、陽向も『ゴリラ=近藤局長』と分かっているので「ゴリラしゃんは、そーこねーちゃの、でしゅ」と、当たり前のように受け答えた。
「どうでもいいだろ。どっちにしろ、ゴリラだもんな。あ、ゴリラの檻か。近藤さんに写メ送ってやっかな」
「ゴリラといえば、糞を投げてくるそうだから、気をつけたまえよ」
伊東はそんなスカトロ爆弾を投げて来る危険生物には近付く気も無いらしく、遠くからそんな言葉をかける。
「うんこ? うんこ、なげちゃめぇーですよーう」
「注意書きにもありますね。なんてデンジャラスな」
「うんこ! うんこ!」
なぜか俄然盛り上がっている妻子を尻目に、土方は携帯を取り出してカメラを起動させる。
檻の中のゴリラはそれまで転がって眠そうにしていたが、騒がしかったのか、おもむろに糞を拾い上げて、スローイング動作に入った。
「げっ。ひなっ、こっちおいでっ」
山崎が、慌てて陽向の手を引いて退避する。
「あれ? 突然、どうしたんやろう。なにか慌ててはる気配やけど。お待ちかねの刺客でも現れたかな?」
オペラグラスを片手にしていた男は、そう呟きながら身を乗り出す。ちらりとでも唇の動きが見えれば何を話しているのか読めるのだが、背中を向けている状態ではどうしようもない。
「しっかりしろよ、エース」
「そっちこそ、でかい図体、チビスケに見付かってはるやないですか。くましゃん?」
そう言いながら、男は隣にちらりと視線を流す。その途端、だった。
ゴリラが糞を持った手を勢い良く振り回し、投擲した。ソレは土方らの傍らを豪速ともいうべき勢いで飛んでいき、オペラグラスの男の頭部にヒットする。
「だれかにあたりまちたね」
陽向がボソッと呟く。
「なっ、なんだよ、今の豪速球は」
「実に豪快なフォームだったね。土方君、ベストショットが撮れたかね?」
「げっ、あのゴリラ、ネクスト爆弾を準備してますよ! ベストショットなんてのんきなこと言ってないで、早く逃げましょう! 危ないですよ!」
ネクスト爆弾と聞いて、土方と伊東もギョッとして離れる。
陽向が振り向いては「うんこめん、うんこめん」と、何か言いたそうにしてるのを、山崎が「はいはい、ゴリラしゃんは、うんこめんだね。おうちのゴリラしゃんも、うんこのひとだからね。こないだ、んこタレてたからね。ひなちゃん、ペンギンさんのショーが始まるよ、ペンギンさんのショー!」と適当にあやす。
「近藤さん、また糞タレてたのか。いい加減にしてくれ、組の長なんだから」
土方がそれを聞き咎めて、ボソッと呟いた。
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