きたのくにから【3】


最果ての地は、未だ天人の超科学の恩恵には預からずとも『禁煙』という名の呪わしい文化には陵辱されてしまったらしく、喫煙コーナーとやらはガラス張りのロビーの隅の小さなテーブルで、アルミの灰皿が申し訳程度に置かれていた。しかも、いつでも戸外に出てくださいといわんがばかりに、小さな扉がひっそりと誂えてある。
室内の方が明るいせいでガラスは鏡のように映り込んでおり、屋外の様子は見えづらかったが、目をこらすと駐車場に並んでいる自動車が辛うじて見えた。

そういえば昼、ザキが妙なことを言っていたな、と思い出す。
白いスイカラインがどーのこーのと。

『片目のスイカラインに追い抜かれたら事故死するって、峠の怪談は聞いたことがあるがな』

『やめてください、峠じゃないけど、山道で追い抜かされてんですよ、俺ら』

『片目だったのか』

『昼間だから、ライトはつけて無かったから、そこまでは分かりませんよ。ナンバーもちゃんと見てないんで断言できないんですが、その後も何回か、それらしい白いクーペ見た気がするんです』

馬鹿馬鹿しいと、笑い飛ばそうとしたが、そもそもこの蝦夷地には攘夷志士が逃げ込んでいるのだ。真選組の副長と参謀なんぞ、彼らにとっては是非とも欲しい賞金首だろう。今日は朝、出張所に挨拶に出てからの行程だったため、昼の大部分を隊服で過ごしていたのだから『真選組はここです』と宣伝していたようなものだ。いや、わざわざ剣豪のふたりを狙わずとも、幼い『副長の娘』は格好のターゲットに違いない。

白い車は何台か見えるが、車種どころかクーペかセダンかさえ、クルマに疎い土方には分からなかった。ちょっと迂闊だったかもしれないな。
そう思ったときに、ガラスにちらりと一瞬、人影が映った。それが屋外にいるのか、背後にいるのがガラスに映り込んでいるか。頭で判断する前に、本能的に振り向いていた。

「気の……せいか」

太刀を腰に帯びていれば鞘を払っていたに違いないが、その代わりに無意識に灰皿を掴んでいた。もし曲者がいたらこの灰皿で戦うつもりだったのだろうかと思うと我ながら滑稽だが、あの気配は確かに「遣い手」の放つものだったと思う。
数拍の間、そのまま周囲を見回していたが、何も感じられなくなったので、土方は深く息を吐く。脂汗が額から顎を伝って、落ちた。




部屋に戻ると無人だったので「すわ」と思ったが、そういえば自分で「腹が落ち着いたら、勝手に行ってろ」と言い置いていたことを辛うじて思い出した。落ち着かないので、テレビをつけてみたり、屯所の吉村に電話をかけて「何か変わったことは無かったか」と尋ねてうっとおしがられてみたりしながら、戻ってくるまでの小一時間をまんじりともせずと待った。

「パパしゃん、たらいま」

そう聞こえたときには、安堵で脱力しそうになったほどだ。

「あのね、ろーかのかどんとこにおじちゃんがいたですけど、ママはみえなかったです。あと、りんたんもいました」

泥んこではしゃいで疲れたのか、戻ってきた陽向は土方にかきつくと、目をトロンとさせながらそんなことを口走った。

「おじちゃん?」

「この子、霊感が強いのか、たまーに見るみたいなんですよね」

「そんなサラッとこわい報告しないでくれ。生きてる人間だっていうのも、シャレになってねぇがな……って、りんたん?」

「ええ、叶が居るっていうんですよ。昼も、おっぱい牛乳を飲んでたとか」

「は? 叶? なんだってそんな奴がこんなとこに居るんだ。んなわけねーだろ。人違いじゃねぇのか? 」

叶禀三郎といえば、一番隊の平隊士だ。そこそこ大きな組織に育った真選組のこと、お偉いさんの御子息もコネで入れさせてくれないかという声も無くはないのだ。大抵は武装警察の名に相応しい激務と訓練で脱落するのだが、稀に居座るヤツもいる。特に一番隊は、隊長の沖田からしてブッ弛んでいるので、ちょくちょくサボって子供と遊んでいるようだ。叶もそんなコネ入隊のグータラ隊士のひとりなのだが、何しろ見廻組の組長直々に「うちでは面倒みれないので、よろしく頼む」と頼まれては、放り出すこともできない。
さっき吉村に電話した時、ついでに叶のことを尋ねてみれば良かったかもしれない。いや、いくらなんでも蝦夷地までサボりに来ることは無いか。ついでに幽霊もいてたまるか。大体、夏は終わったんだ、ヤツらはシーズンオフじゃないかと己に言い聞かせて、土方は陽向を抱き下ろす。

「じゃ、俺も風呂いってくらぁ。ザキ、ひなを寝かしつけておけよ」

手拭いと着替えを持って土方が廊下に出ると、確かに人がついさっきまで居たような気配があった。叶禀三郎を見たというのは、陽向の見間違えだとしても、誰かにつけ回されているのは確かなようだ。


「直接手ェ出してこねぇ分、幽霊の方がマシだってか? 冗談キツいぜ」

土方がボソッと呟いた。




せっかくの満天の星を眺めながらの露天風呂であったが、先ほどの気配がどうにも気になって仕方なかった。

「人を隠すには人の中ともいうし、明日は動物園、やめておいた方がいいんじゃねぇのか?」

湯舟に浸かりながら、無いアタマを絞ってさんざっぱら考えた結論は、それであった。
万一何かあったとして、女二人と子供一人を守りきれるかどうか、鬼の副長といえどもさすがに自信がない。しかもここは江戸ではない。土地勘がまったくなく、知己もいない地だ。

「でも、ひながあんなに楽しみにしてたのに」

「そもそも、お前が白のスイカラインとか言い出すからだろ。だったら、何かあったらひよとチビが優先で、おめぇは後回しな、ザキ」

「ちょっ、ひでぇっ!」

「あたりめぇだろ。要は、参謀職と平隊士どっちを優先するかというハナシじゃねぇか」

本当にそれだけだろうかと山崎は恨めしく思うが、確かにそういう論点で言うのなら、土方の選択は正しい。
『おまえの方を愛してるから、守ってやる』なんて甘い台詞は、土方に期待するだけ無駄だということぐらい、長い付き合いで分かっている。それでも、ちょっとぐらい夢を見させてくれてもいいのに、なにも、そんなにあっさり宣告しなくたって。
だが、一方の伊東も「僕を選んでくれるのは嬉しいけど、僕の方が役職が上だからって、それだけの理由なのか」とむくれている。

「なんだふたりして。だから、何かあったら、だ。理由はともあれ、万が一のときには守りきれないから、明日の動物園はやめた方がいいんじゃねぇのか、と言ってるんだ。ザキひとり捨てて済めばいいが」

「済ますなぁ!」

「喚くな。チビが起きる」

「だって」

思わず視線が陽向に集まる。ふっくらした頬は桜色で薄く開いた唇には、何の夢を見ているのか淡い笑みが浮かんでいる。

「ひな、あんなに動物園楽しみにしてたのに」

「そうは言っても、だなぁ」

動物園ぐらい江戸にもあると言いたいところだが、蝦夷のそれは地球原産の動物を自然に近い形で、しかも楽しく見ることができるというので、地球外でも評判になっている。だから是非とも見たいという気持ちは、いくら流行には疎く無粋な土方にも理解はできた。

「屁本殿に頼んで、護衛をつけてもらうというのは、どうだろう」

長らくの沈黙の後、伊東がそう提案した。
あんなことがあった相手だから、本当ならもう顔も見たくはないのだが、護衛を依頼するのは正当な権利だし、屁本にもそれを断るいわれはない。それに、社交辞令とはいえ「何かありましたら、いつでもお申し付けください」と言っていたのだから。

「ごっついオッサンに囲まれて、チビが楽しめるか?」

「元々、屯所ではごっついオッサンに囲まれて暮らしてるんだから、慣れっこだろう。気になるのなら、見えないように護衛してもらえばいい。元・海軍副総裁のSPなら、それぐらいの芸当はできるだろう」

「おまえは、いいんだな?」

土方がしつこく伊東に念を押したのは、やはり屁本が伊東にちょっかいをかけようとしたことが気にかかっているからだろう。

「ああ。それに、どうせ女とバレているんだから、取り繕う手間も要らないし」

一方、その事件の詳細を知らない山崎は「え? バレてるって何故? 何かあったの? もしかして昨日の?」と、ふたりの顔を見比べて固まってしまった。

「そうと決まれば、人の手配もあるだろうし、早めに連絡を入れてやった方がいいな。ザキ、あのホストもどきの名刺どこにやった?」

「あれ、どこだろ。さすがに名刺は折り紙にはしてないと思うけど」

声をかけられた山崎は、弾けるように再起動すると、イヤゲもの、もとい土産物で膨らんだ荷物をひっかき回し始めた。






その晩、熟睡しているところを揺り起こされた。

「んだよ、ひよ」

「怖い」

「は? どうした?」

土方は反射的に跳ね起き、枕元に置いていた太刀を鞘ごと握っていた。

「いや、その。なんか寝れなくて、そうしたら視線を感じたような気がして」

伊東がへどもどと言い終わるのを待たず、土方は伊東を片腕で抱え込むと、太刀のこじりで障子を勢い良く押し開けていた。

「誰も、いねぇな?」

「うん、気のせいだと思う」

「だったら、おとなしく寝ろや」

「一緒に寝てくれないか?」

犬に咬まれたというか咬まれもしていなかったのだろうが、あんなことがあった相手に、明日会うというのだから、神経が昂ぶっているのだろう。腕の中で身をすくめている寝巻き姿は、男装で仕事をしている凛としたイメージとは全く異なり、実際以上に小さく頼りなく見えた。

「オメェ、ガキかよ。チビだって一人で寝てるぞ?」

そう罵りつつも、抱えたまま布団に戻る。

「あんまりひっつくなよ。催しても、隣でザキとチビが寝てるんだから」

「催したら、ふたりでこっそりどこか出ようか」

見上げてくる伊東は、悪戯っぽい笑みを浮かべている。土方はその頬をむにっとつまんだ。

「バカ。さっきまで真っ青んなって震えてたくせに」

「君が居てくれたら、怖くない。僕を殺すのは君だから。それまでは守ってくれるんだろう? さっきのは、そういう意味じゃないのか?」

「寝ろや」

うん、と幼子のような返事が返って来た。
首を振って指を振りほどくと、猫が暖を取るような仕草で、胸元に額をすりつけてくる。その背を撫でてやるうちに、すうすうと寝息が聞こえてきた。ほんのりとした熱を感じているうちに、土方も眠りに引き込まれる。






「パーパーしゃーん! あーしゃーでーすう」

どす。

腹に何かの塊が降って来て、土方は「ぐぇっ」という奇声と共に目を覚ました。見れば陽向が跨っており、枕元には山崎が妙な笑顔を浮かべて、土方を見下ろしている。
まさかとは思うが、いや確実に、山崎が土方の腹目掛けて、陽向爆弾を投下したに違いない。

「ザキてめぇっ!」

陽向は平均よりも小柄だとはいえ、少なくとも10キロはある。打ち所が悪ければ……いや、こんな空爆ぐらいで肋骨を折ったりするほどヤワな鍛え方はしていないつもりだが。

「なんで、デコがアンタの布団で寝てるんですかっ!」

「あん? あー……多分、寝惚けたんだろ」

「んだよ! だったら俺も寝惚けりゃ良かった!」

「ひなも、パパしゃんといっしょがいーいー!」

これだけ隣で喚いていても、伊東は土方の胸元にひっついたまま「あーうー」と唸ったきり、目を醒まさない。男だった頃は熱心に早朝稽古に出ていたのだから、決して寝起きは悪くなかったと思うのだが。

「土方さん、退いて。デコーッ! 起きろぉ!」

「おかーしゃーん、どーぶちゅえーん!」

「んーもう少し、土方くぅん」

「だぁあああああっ! 抱きつくなぁあああああ! ちょ、ビンタしていい? 土方さん、ビンタでデコ起こしていい?」

「勝手にしろ」

山崎がガックンガックンと伊東を乱暴に揺すぶって起こそうとするのを、土方は苦笑いしながら眺めていたが、ふと懐を探ると「ちと、煙草吸ってくらぁ」と言い置いて灰皿片手にベランダに出た。

視線を感じたような気がして、か。

客室は三階。窓からの出入りは不可能だろう。
廊下は板張りで、通常の体格のオトナが歩けば、僅かながらも軋んで鳴る。
天井か床? 上階との間にどの程度、空間があるのだろうか。監察方の連中なら、知恵を絞ればどこかに抜け穴を見つけるのだろうが。まさか本当に幽霊? んなバカな。
窓の外は雲ひとつない、清々しいほどの秋晴れだった。

こんな天気だと、遠距離による狙撃は防ぎきれないと土方は危ぶんだが、もう護衛を頼んだのだから何とかしてくれるだろうと居直って、腹を括るしかあるまい。





屁本が手配してくれたという男らは、元は武士だったとのことで、ちょんまげ頭に太刀を落とし差しにしていた。まるでこちらが浪士のようだなと苦笑させられるいでたちだが、毒を以って毒を制するという語もあるし、取り締まる側と取り締まられる側のガラの悪さがどっこいどっこいだというのは、真選組とて例外ではない。そもそも警察庁長官の松平公からしてヤクザ顔負けなのだ。

屁本自身は公用で出ているというので、土方一向と護衛を引き合わせたのは、秘書氏であった。これ以上伊東と顔を合わせるのが気まずいと、屁本も思ったのかもしれない。少なくとも、伊東にとっては幸いであったろう。もう一つ利点を言うなら、今日は正装をする必要が無かったということだろうか。
土方はいつもの黒い着流し、山崎は白い作務衣、伊東と陽向もそれぞれ和装だ。本当なら山崎も女装したかったのだが、運転手を務めるために足捌きの良い服装を選んだ結果、こうなってしまったのだ。

「では、お借りするよ。君達も、今日はよろしく頼む。えっと」

「中村と呼んでくだされ」

「分かった。中村殿。そちらは?」

「拙者も中村で」

「それがしも中村で」

「三人ともかね?」

「じゃあ、中村A、B、Cで」

つまりこれで、三名の中村氏が付かず離れず護衛をするとことになった訳だ。彼らの剣の腕がどの程度かは分からないが、少なくともズブの素人ではないということだけは、腰つきや視線の配り方で知れた。
だが、昨日の『気』とは比べ物にならない。

「最悪、あいつらを盾にすりゃいいな」

サラッと言うあたり、土方も外道だ。

「あのおじちゃん、いたよ」

では出発進行という時になって、陽向が不意にそう言い出した。中村兄弟がギョッとしてガラの悪い顔を引きつらせる。

「居たって、どこにだい?」

「たくさんのとこの、すぱげちーたべてました」

「スパゲティ?」

伊東が首を傾げて山崎に通訳を求めるが、山崎にも見当がつかない。

「おじちゃん、すぱげちーたべてました」

「どこでだい?」

「すぱげちーのとこ」

「いや、だから」

「すぱげちー」

スパゲティといえば、一昨日の宿のまずい夕食の献立にもあったなと、山崎は思い出したが、まさかあの宿で見かけたということではあるまいと、あえてその可能性を飲み込んだ。いや、本当に居たとして、それがどうだというのだろう?





「片目のスイカライン、居るか?」

自動車に乗り込もうとして、土方が山崎に尋ねる。山崎は首を振った。

「片目かどうかは分かりませんよ。良く似た車はいるけど、あんな痛車のような派手な模様はついてませんでしたし」

「イタシャ? 外車か?」

「イタリアとは関係ないです。痛い車って言うんですかね? ほら、あそこの、今駐車場を出て行く美少女侍トモエちゃんのイラストとか『おっぱい!おっぱい!』とか描いてある、賑やかな車……あれ、シールなんかで簡単に貼れるとはいうけど」

その痛車を見送ってから、おもむろに自動車に乗り込む。
一方、黒眼鏡をかけた中村兄弟はとうに黒のベンシに乗っており、土方ご一行様の出発に備えていた。

「片目のスイカラインといえば、怪談にあったね」

ちらっと話が聞こえたのか、伊東が口を挟んできた。
ああ、そのハナシなら土方さんからも聞きました、と答えようとしたところ、伊東が「そのスイカラインを追い抜いたら、背後から時速100キロのスピードで走るお婆さんが追ってくるって」などと、真顔で続ける。

「は?」

時速100キロで走るお婆さんって、ビジュアル的に想像を絶しているんですけど。

「そういうふうに、篠原君に聞いたことがある。確か、マッパババァだったか」

いや、マッパだったら、全裸ですから。お婆さんが全裸で走ってたら、怖さ倍増だから。多分マッハって言いたかったんだろうけど。それってアンタ、しのにおちょくられたんですよ、と山崎が鼻で笑おうとしたら、土方が「それ、俺も聞いたことあるな。どこの峠の話だったかな、俺が聞いたのは、100キロババァってぇヤツだが」と、ボソッと重ねた。

「はぁ? アンタ、いくらデコがカワイイからって、わざわざそんなのまで庇わなくてもいいじゃないですか」

「え? 僕がカワイイって? 本当かね、土方君」

「論点違っ!」

駄目だコイツら、早くなんとかしないと。山崎は諦めてアクセルを踏み込んだ。
動物園の開園に間に合うようにとスピードを上げると、スポーツカーに相応しくない速度で走っていた痛車との間がみるみる縮み、追い抜いた。

「おばーしゃん、くゆ?」

さきほどの会話が聞こえていたのか、陽向が不安そうに尋ねる。

「来ないからっ! そんな速度でお婆さん走れないから! ひなは、そーいうオハナシ信じるオトナになっちゃダメだからね」

そう言いつつ、山崎もついつい視線がバックミラーに流れた。鏡の中では、ちょうどベンシもスイカラインを追い抜こうとしていた。




初出:09年05月04日
←BACK

※当サイトの著作権は、すべて著作者に帰属します。
画像持ち帰り、作品の転用、無断引用一切ご遠慮願います。