きたのくにから【2】


蝦夷地のひたすらだだっ広く荒削りな大地は、まさに『雄大』の一言に尽きる。しかしその大地の神々の息吹をも感じさせる雄大さこそが、人の手が入ることを拒み、開発を妨げるのだ。その好例が、一度は敷いたものの栄えることなく寂れていった鉄道網跡であり、その駅に設置された雪隠であった。

「水、流れるのかな」

今にも風化して自然の一部に帰ってしまいそうな小屋は、白い壁土が所々禿げて下地がのぞいていた。その廃虚っぽさがいいのか他にも何台かの自動車が停まっており、廃駅を熱心にカメラに撮っている者もいる。

「野グソよりマシだろ」

育ちの悪い土方なんぞは「せっかくの機会なのだから、広大な景色に囲まれての野グソもさぞや気持ち良かろうに」と思うのだが、お上品な家柄に育っている伊東にしてみれば、そんな自然に対する冒涜的行為なんぞできるか、ということらしい。

「大じゃない! 小用だ!」

「どっちでもいいだろうが。どうせ人間なんだから、クソもするんだし」

土方は苦笑しながら、伊東が白いハンドバッグを抱えて雪隠に駆けていくのを見送った。

「チビは大丈夫か?」

「出張所を出る前に、お手洗いお借りしたから、まだ大丈夫だと思いますよ。まぁ、これだけ何もないところだったら、どこでもオシッコさせられそうですし」

山崎はそう言いながら、伊東がいないのをいいことに、土方の隣にそっと寄り添う。今回の任務はなぜか最初から、外交が不得手な土方が指名されていたと聞く。その補佐として、伊東を付けることになり……コイツラ二人で出張になんぞ出したら、帰りには三人になっていたりしてな、という近藤の冗談が冗談に聞こえず「荷物持ちに、俺が付いていきます」と山崎が手を挙げたのだ。そうなると子供を置いていくのかという話になり。結局、家族旅行になってしまった。

どうせなら、二人で旅行したかったなと、山崎は思う。
土方の周囲はいつも恋のライバルが居たから、二人っきりになる機会なんてほとんど無かった。最後の手段として性転換するクスリを飲み、これで独占できると思ったのも束の間、伊東が割り込んできた。本当なら、山崎はここでフられてもおかしくなかった。
だから、たとえ子育てを手伝うという名目であろうとも側に残ることを許されたことを、少しは自惚れていいのではないか、いやそう思わせてほしい。

「土方さん」

「あん?」

「キスしていいっすか?」

「何を唐突に。バカか、おめぇは」

想い人に寄り添って立つその背後が、たとえ古びた雪隠だとしても尚、遠くに見える山々は青く、ロマンチックだった。



一方。
伊東は備え付けのトイレットペーパーの残りが少ないのに気づいて、懊悩していた。男の小用には必要ないが、女の身体でこれは少なすぎる。ペーパーホルダーの上部には予備のロールが入っているが、その交換の仕方が分からない。トウモロコシの芯を使う民族もいるというから、この芯で……って、そんな蛮行、男の身体でも絶対イヤだ。

誰かに救援を求めるしかなかろうと、自分の携帯電話をハンドバッグから取り出したが、土方の携帯も預かっていたことを思い出した。
しまった。こんなことになるのなら、山崎君の携帯番号もちゃんと登録しておけば良かった。いつかは登録すべきだろうとは思っていたのだが。
いや、土方君の携帯には、山崎君の番号が登録されている筈だ。これは名案だと取り出してみたものの、メインディスプレイを覗き込んで、電波状態を示すアイコンが『圏外』であることに気づいて、愕然とした。よく考えれば……考えなくとも、こんな原野のド真ん中では携帯電話が圏外なのも当然だ。
便座に座ったまましばし考え、なんとかして予備のロールを取り出すしかない、という結論に舞い戻る。

こういう場所には、使用方法を書いたパネルなどが張ってある筈なのだが、見当たらない。説明されずとも交換できる簡単な構造だとでもいいたいのか? しかし、どのようにしたらこの予備ロールのケースが開くのか、見当もつかない。
まずは、この芯を外さねばなるまいが、ホルダーにはボタンもレバーも無く、芯は左右に動かない。こういう時、左手が利かないのが恨めしくなる。半ばヤケっぱちに引っ張ってみたら、ガコンという派手な音と共に芯が下に外れた。

ちょっ、芯の左右に留め具が付いてるじゃないか。これを外すのか? どう入れ換えろと?。

さすがの伊東も、冷静さを失いそうになった。この際、プライドを捨てて内側から大声で助けを呼んで、山崎君にでも来てもらおうか。せめてその前にパンツぐらい履きたい。そう思った矢先に。

ぼと。

予備のロールが落ちてきて、勝手にセットされた。
んだよ!  最初から留め具付きの紙なのかよ! 




やっとのことで伊東が個室を脱出すると「遅かったな。腹下してたのか」と、土方に声をかけられた。隣にいた山崎は「もっとゆっくりしていて良かったのに」と、露骨に不満顔をしている。

「だから、小用だと言っている」

「ママ、ショーヨーってなんですか?」

なにが面白いのか、スカートの裾からパンツ丸見えの格好でしゃがみ込んで、じっと蟻の群れを眺めていたひなが、顔を上げて尋ねた。蟻なんか江戸にいくらでも居るのだから、どうせなら景色を眺めるとか、珍しい虫を探すとかすれば良いのにとオトナは考えるのだが、子供は子供の楽しみ方があるのだろう。

「さぁて何だろうねぇ? ひな、もう少し車に乗ったら大きな湖だよ。そこでお昼食べようね」

山崎はそう言ってはぐらかすと、ひなを抱き上げてチャイルドシートに押し込んだ。

「紙を交換できなくて、困ってたから遅くなったんだ」

山崎が土方から離れたので、代わりに伊東が土方の傍らに寄って訴える。

「紙って。ひよ、おまえハンドバッグ持っていってたろうが。ポケットティッシュ、入ってなかったのか?」

「あ」

そういえば、そうだった。目の前に替え芯があったから、これを替えないといけないと思い込んでたけど。
思わず伊東が固まっていると、土方が伊東の頭に手を乗せ、わしわしと髪を揉むように撫でてやった。

「あ、じゃねぇよ。おまえ『鴨太郎』じゃねぇときは、ホント抜けてるな。そっちの方が、可愛げあっていいけどよ」

「むう。単に仕事が終わって、気が抜けてただけだっ」

頬を赤く染めて、照れ隠しに土方の脇腹をつねってくるのを「ハイハイ、分かった分かった」と受け流していたら、山崎が運転席の窓から顔を出して「アンタら、何イチャついてんすか。轢きますよ、デコだけ」と喚いた。

「なんで僕だけ、なんだ」

「俺と土方さんとで末永く幸せに暮らすからに決まってるじゃないですか。大丈夫、ひなは俺が立派に育てます」

「なんだと」

「おいおい、おめーら、こんな最果ての地に来てまで、喧嘩すんなや」

山崎は『そもそもアンタが原因なんですっ! デコばっかり甘やかして!』と反論したいところを、子供の前でこれ以上モメるのは……と堪えて「そうですね、すんません」とオトナの受け答えをしてみせた。





イライラしながら運転していたせいで、どこかの標識を見落としたのかもしれない。山崎は、ちらと視線をやったカーナビの画面で、自分たちが『道なき道』を走っていることに気付いた。

「ちょっ、大変だ、道がないっ!」

「道? あるじゃねぇか、目の前にまっすぐ、どこまでも。なに口走ってんだ? アタマ大丈夫か?」

「いや、土方さん、そうじゃなくて。今走ってるこの道が、カーナビに無いんですっ!」

「地図にはあるよ?」

助手席でロードマップを広げていた伊東がキョトンとそう言うが『鴨太郎』じゃない時の伊東のオツムは(先ほどの雪隠事件でも立証されているように)イマイチ信用ならない。

「とりあえず行ってみろや。全ての道はローマに通ず、だ」

俺らの目的地、ローマだったっけ? もういいや。上司ふたりがそう言うんだし。役職離れたところで、ダンナサマが行けって言ったんだから、いいよね、別に。俺、悪くないよね。

居直って、そのまましばらく突っ走っていたら、舗装も粗くなり車体がガタガタと揺れはじめる。いや絶対この道間違ってるよ、地図で確認した時はこんな山道なかった筈だものと、思っていたら弱り目に祟り目、今度は陽向が「ママ、しぃし」と言い出した。

「げっ、マジ? ううっ、やっぱり、さっきのとこでさせておけば良かったあっ!」

「しぃし、もぐっちゃう」

「もぐしちゃダメえぇっ! もうちょっとだけ我慢してぇええっ!」

慌てて車を路肩に停める。車外に出て後部座席側に向かうと、土方が陽向のチャイルドシートのベルトを外して、抱き下ろしてくれていた。

「ほれ」

「すっ、すんませんっ、ちょっと行ってきますっ!」

ほれ、じゃないだろ、アンタの子だろとか、実の母親の伊東がぽやんとしていることとか、色々ムカつくことはあるが、緊急事態なので構っていられない。左右は、いつのまにか熊笹が繁る原生林になっている。湖までの行程にこんな森あったっけか。ちらほらと色付く紅葉は美しいばかりだが、今はそれを鑑賞している場合ではない。
陽向をしゃがませて用を足させていると、後ろから自動車が走ってくるのが見えた。あれ、あの車、さっきの廃駅にも居なかったっけ? ドがつくほどノーマルな白のスイカライン。まるで覆面パトカーみたいだなと思ったので、記憶に引っ掛かっていたのだ。
もちろん目的地の湖は有名な観光地なのだから、偶然同じ場所に向かっているという可能性もあるのだが。首を傾げている間に後続車が通り過ぎていく。助手席に人影はない。やっぱりこんな田舎道を覆面パトが走っているわけがないか。職業病だなと、山崎は苦笑した。

陽向にパンツを履かせて車に戻ると、薄暗い原生林が続く道にさすがに不安になったのだろうか、伊東が広げていたロードマップを、今度は土方が捲っていた。

「道、分かります?」

「とりあえずUターンして、三叉路まで戻れ」

「あ、やっぱりか」

「やっぱりかじゃねぇ、おかしいと思ったらちゃんと調べろ」

「アンタが、とりあえず行ってみろって言ったんでしょお?」

くっそ理不尽だ、と呟きながらも自動車を方向転換させる。先ほどの車も道を間違えたと気付いたのかUターンしたのが、バックミラーに豆粒のようなサイズで写っていた。





辿り着いた湖はぼんやりと淀んだ空気をまとい、鮮やかな森の色を映して神秘的な雰囲気に包まれているが、駐車場とその周囲の土産物屋にはカラフルにペンキが塗りたくられており、俗っぽい賑やかさに満ちていた。

「蝦夷はもう秋だから肌寒いと聞いていたんだがね。ショールは必要なさそうだな。むしろ、暑い。いっそ、平服に着替えて来ようかな」

「俺も上だけ着替えようっと。運転するから、下はスラックスのままでもいいけど。土方さん、陽向、みててくださいねっ!」

そう声をかけてから、土産物屋の隅の厠に駆け込む。
着替えて戻ると、陽向は、包装紙から顔だけ出した熊のぬいぐるみを抱えながら、なぜか衣類のコーナーで熱心にパンツを眺めていた。

「ひなは履けないパンツだよ? 頭にかぶってもダメだし、旗みたいに振り回してツンパ皇帝を応援するのもダメだよ?」

「うん。ツンパこーてーは、パパしゃんがタイーホするですよね? あのね、ぬいぬいかってもらたの」

「ぬいぬい? 良かったねぇ。で、なんでパンツなんですか、土方さん」

「熊出没危険、だってよ」

「パパしゃん、くまーくまーがおー」

どうやら陽向は、真っ黄色のトランクスにヒグマのリアルなイラストがついたジョーク商品が、非常にお気に召したらしい。

「土方君、ブリーフ派はやめるのかね?」

「いや、やめねぇけど。面白いから、監察方の連中に土産で買ってやっかな」

「土方さんがブリーフやめること自体は大賛成ですし、ひながそれに協力的なのは嬉しいんですが『熊出没危険』は萎えます。もっさり白ブリーフ以上に萎えます。そして、そんな土産買って帰った日には、俺が袋叩きにされます。アイツら、元が俺だからって、オンナ相手でも容赦ねぇ。特にしのの野郎、本気で関節技かけて来やがるし」

土方と伊東が深い仲になったといっても、その各々の配下である山崎と篠原の確執まで氷解した訳ではないのだ。増してや、女になったから許すとかいう性質のものではない。そもそも、その仲違いの原因の一端は土方にもあるため、せいぜい「仲良くしろや」というのが精一杯だ。もちろん効果なんぞある由が無い。
今回も、山崎の控えめな訴えはサラリと聞き流された。

「パパしゃん、ちーしゃつもあるです、がおー」

「土方君、そんな悪趣味なTシャツ、どこで着るんだ? 頼むからやめてくれたまえ」

「可愛い柄のんもあるぜ、ほら」

土方が一枚取り上げて、伊東の胸元に押し付けた。淡い桃色のシャツの胸に、猫のように丸っこいキタキツネがプリントされている。

「か、可愛い、か?」

「ちょっ、またアンタ、デコばっかりっ! デコもほだされんな! 俺のは?」

「んー…これかな?」




そのシャツには、黒字に白い筆文字でデカデカと『地味』と書かれていた。




結局、Tシャツ案も山崎に激しく却下され、伊東と山崎が土産物を適当に見繕っている間、土方と陽向は駐車場前のベンチに座って、買い食いして待つことになった。

名物だという何だか分からない緑色のアイスクリームだの、チョコレートを挟んだビスケットだの、ジャガイモのコロッケだの。小腹がすいたからと、気の赴くままに買い込んだのだが、結構ボリュームがある。
チビがお腹いっぱいで昼御飯が食べれなくなって、また口うるさいのに叱られるんじゃないかと思ったが「おっぱいにゅーにゅーだって! あれものむー」と、娘に可愛らしくせがまれては、断れる由もなかった。

絞りたてだという、その瓶詰め牛乳の紙蓋を外してやっていると、二人が戻ってきた。

「ちょ、自分らばっかり食べてっ!」

「食欲の秋だ。誰かが迷子になってたから、腹へったんだよ。で? 何買ってきたんだ?」

「誰かって誰? 俺っすか? どうせ俺なんすよね、ちくしょう。あ、えーと、監察の連中と沖田さんには、携帯のストラップです。デコが選んだ、木彫りの呪いの人形の」

「呪いの人形じゃない。コロポックルだ。由緒正しい蝦夷地土産じゃないか」

「え? 違うの? 呪いの人形だから、沖田さんも喜びそうだと思ったのに。後は、みんなでつまめるような食べ物系かな。局長には、ジンギスカンキャラメル頼まれてたので、探してました。すっごいマズイってネットで評判らしいから、是非挑戦してフルーツポンチ侍に自慢するんだって」

「誰だそれ。訳わかんねぇ。んで? 次は遊覧船に乗るんだっけか?」

「じゃあ買い込んだ土産物、車に置いてきますね。ひな、くまさんにはお留守番してもらおうね?」

「いやーつれてくー」

仕方ないなと苦笑しながら、くま以外の荷物を抱えて、山崎が駐車場に戻った。
家族連れらしいキャンピングカーやミニバンが並んでいる。なにげなく視線を巡らせて先ほどの白のスイカラインを探してみたが、大型バスなども居て死角が多く、パッと見では分からなかった。





遊覧船で小一時間、水の上を渡る風に吹かれてから、いかにも観光客向けの施設をいくつか巡って、二日目の宿についた時には、空の碧は地平の向こうから薄紅に染まり、そこからさらに濃紺へと彩りを変えていくところであった。

「ママとおかーゃんおはだつるつるにしにいきました。ひなもつれてってほしかったです」

船酔いでもしたのか、まだ地面がフワフワしているなと土方が客室で休んでいたら、陽向が半べそでかきついてきた。旅館に着いて案内された部屋に荷物を置くなり、産みの母と育ての母、揃っていそいそと岩盤浴に行ってしまったのだ。

「オメェは必要ねぇよ。こんなぷよぷよつやつやしてて。あいつらみてぇに、カサカサじゃねんだからよ」

そういって抱き上げた子供の頬に頬ずりしてやると、くすぐったかったのか、キャッキャッと大声で笑って手足をばたつかせた。すっかり機嫌を直した陽向は、お土産にと買ってもらった玩具を引っ張り出したり、あちこちでもらったパンフレットを広げたりして、ひとりで遊び始める。
土方はそれを眺めながら……子供の前で煙草は吸えないので、代わりに部屋に備え付けてあったインスタントコーヒーの紙コップを取り出し、ポットの湯を注いでちびちびと飲んでいると、二人が戻ってきた。

「ぱぱしゃんが、おかーしゃんとママのことカサカサっていってまちた」

嬉々として陽向が報告し、土方は思わずブッとコーヒーを吹いてしまう。たちまち、女二人の柳眉が吊り上がった。

「カサカサぁ!? ちょ、このロリロリボディに向かって、カサカサとはなんです、カサカサって、土方さんッ!」

「うるっせーよ。おめぇら、もう三十路だろーが。子供の肌に比べてカサカサなのは仕方ねぇだろ」

「ううっ」

「待て、僕はまだ三十路じゃないっ!」

山崎は詰まったものの、伊東は昨日も屁本に三十路扱いされたせいか、思わずムキになる。

「年末には三十路だろうが。お肌の曲がり角は二十歳なんだよ。とっくにヘアピンカーブ曲がってるだろ。つーか元は男なんだから、そんなもん気にしてギャーギャー言うんじゃねぇよ」

土方が面倒くさそうにそう吐き捨てるが、伊東はなおも「元が男だからこそ、女以上に女らしくしておきたいと思うんじゃないか」と食い下がった。

「それとも、土方君も、僕らよりも若くてカワイイ女の方がいいとでも?」

「も、って誰だよ。も、って。そうは言ってねぇだろ。だから、コイツがおいてぼりにされて泣いてたから、おめぇらと違って岩盤浴してお肌ツルツルにする必要はねぇって、そう言ったんだ」

カサカサ発言が飛び出した文脈と状況を説明して、ようやく二人の怒りが収まったらしい。爆弾投下した当の本人は、何が起きたかを理解できなかったのか、キョトンとしている。

「そうか、一緒に来たかったんだね。ゴメンネ、連れて行ってあげれば良かったね。ひなはのぼせちゃうと思ったから置いてきちゃったんだけど」

山崎がそう言って、陽向を抱いてやる。
こういう時の対応は、山崎の方が生みの親よりも親らしい。いや、まともな愛情を受けずに育った伊東は、こういう時どう対処していいのか、見当もつかないのだろう。

「食事の後で、泥んこパックしに行くから、今度は連れて行ってあげるね」

「どろんこ? どろんこあそびするとばっちいからダメって、おかーしゃんがいうです」

「デコ、オマエ、日頃そんなことひなに言ってるのか、まったく。今日は、いっぱい泥んこしていいからね」

「ほんと?」

コイツラまだ風呂に入る気かと土方は呆れたが、陽向が喜んでいる姿を見ては、さすがの土方も甘くなり「ま、いいか」と呟いていた。




ビュッフェスタイルの夕食は、昨日の宿とは比べ物にならないほど美味だった。蟹が若干小さくて痩せているのが気になったが、そもそも蟹の旬は冬なのだから、ケチをつける方が筋違いだ。

「今日の宿は当たりだな。昨日のが酷すぎただけってぇハナシもあるが」

土方が皿に取った山海の幸に、持参のマヨネーズをにゅるにゅると盛り付けながら、上機嫌に言う。
山崎はその皿の惨状に眉をしかめながらも「そうですね。昨日のとこは、客筋も良くなかったと思いますよ、あの団体客、どこの田舎侍か知らないけど、夜中まで宴会場でドンチャンやってたし、客室でもなにやら声高に騒いでたし」と、受け答えた。

「パパしゃん、ひなのおさらにも、マヨマヨくだしゃい」

「よしよし」

土方がマヨボトルを取り出し、ねだられるままに愛娘の皿のおかずにかけてやった。これが普通の親子なら実に微笑ましい食卓の光景だが、ものには限度というものがある。皿はみるみる黄色いあんちくしょうの海と化していった。

「ちょっ、土方君っ、よしよしじゃないッ! せっかくの美味しい料理になんてことをっ!」

「土方さんっ、そんな英才教育なしですよっ!」

蛙の子は蛙、マヨラーの娘はマヨラー。
どうやら伊東の常識的味覚は遺伝しなかったようで、母親二人の抗議も虚しく、陽向は嬉々としてそのあんちくしょうの中を泳ぐおかずをスプーンですくい始めた。



その後、娘のデザートのパフェにはマヨネーズがトッピングされたし、父のコーヒーにもウィンナーコーヒーのホイップクリームよろしくマヨネーズが浮かべられた。

「バターなら、寒い地域ではコーヒーに落とすと聞いたことがあるし、遊牧民にはお茶に入れる風習があるらしいが。同じ油分でも、マヨネーズはちょっと違うだろう」

「てゆーかマヨって主成分、卵ですよね。バターと違って、熱で固まるんじゃないの?」

二人の呆れた視線もなんのその、土方はそれを悠々と飲み干した。コーヒーを飲めば煙草が吸いたくなるのは自然の摂理、土方も例外ではなく「ちと一服してくる。おめぇらも腹が落ち着いたら、勝手に行ってろ」と、席を外した。




初出:09年05月04日
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