※当作品は『バラガキ編』前に書いたため、佐々木及び 見廻り組はオリジナルとなっています。ご了承ください。
きたのくにから【1】
黒塗りの公用車が、煉瓦作りの幕府の蝦夷出張所前に横付けされた。
颯爽と降りたのは隊服姿の真選組副長・土方十四郎と同参謀・伊東鴨太郎。そして従者の山崎退が、幼女の手を引いて続いた。
「遠路はるばるようこそ。しかも可愛いご息女を連れてとは。蝦夷地は何もないところだけど、天人開化以前の美しい景色だけはまだ豊富に残っているから、存分に楽しんでくれたまえ」
玄関先で出迎えた男の、黒い礼服の長い裾や詰め襟は金銀のモールで縁取られ、肩から腰を飾る紅白のサッシュベルトには過去の経歴で得たのであろう数々の勲章がきらめいている。
「こんにちわ。ひじかたひなたです」
大人が改まって自己紹介をするより一瞬早く、幼女がぴょこんと頭を下げた。諸事情あって本当は土方姓ではないのだが、例え伏せたとしても土方の子だろうと見当がつく、濡羽色の髪に白い肌。ぱっちりとした睫毛の長い目は、長ずれば涼しげな切れ長になるであろうと想像できる。土方らの隊服に合わせてコーディネートしたのか、黒地に白のフリルが愛らしいエプロンドレス姿だ。
「こんにちわ。私は屁本武揚。ここの所長だよ」
辺境の地の所長といえば一見すると低い地位のようだが、中央に居た頃は幕府の海軍の副総裁の地位に居たのだとか。派手派手しい衣装もその当時の名残りだろう。
まだ天人の超文明の恩恵が行き渡らず、従って幕府の支配力が乏しいこの地に攘夷志士が逃げ込んでいるらしいというタレコミが入ったため、情報提供と捜査協力を求めて、この屁本氏を訪問するというのが、今回、土方らに与えられた任務だ。
だが実際には、より幕府上層部とのパイプが太い見廻り組が、既に裏で話をつけているらしい。そうでなければ、むっつりと冗談など言ったこともなさそうな、屁本が「で、ぽやぽや君とかいうのが奥さんだと佐々木殿から聞いてるけど、君がそうなのかい?」などと、真顔で山崎に尋ねる由がない。
土方は「あの野郎、要らんこと話しやがって」と苦虫を咬み潰した顔になり、伊東は「そうか、土方君は公的には僕を正妻扱いしてくれているのか。でも今は『鴨太郎』だから、名乗り出る訳にはいかないな」と戸惑い、山崎は居直って「あい、うちが土方の妻のぽやぽやですえ」と誇らしげに宣言し、陽向は「おじちゃん、はなげでてる」と大きな声で指摘した。
「こら、ひな。済まない、屁本殿。まだ子供なもので」
「構わないよ、伊東殿。おちびちゃん、これはおじさんのチャームポイントなんだよ」
「チャーポムント? それはチャーポムントですか」
「そうそう、チャームポイント」
「ザキ、ひな連れて隣の部屋で待ってろ」
土方に言われるまでもなく、山崎が陽向の手を引いた。屁本の秘書であるらしい青年がふたりを別室に案内し、彼らの荷物もそこに運び入れるよう使用人らに指示した。
「では、土方殿と伊東殿はこちらへ」
副所長であるという平木公が、ふたりを大広間の大理石の長卓子へと招く。革張りの豪奢な椅子は、肘掛けと猫足の脚が黒光りする漆塗りだ。壁には巨大な角を振り上げた鹿の首の剥製が飾られていた。
見廻り組が予め含めおいていたおかげか、屁本も大筋ではすんなり合意してくれた。それでも、協定書に署名捺印をするところにたどり着くまでには数時間を要したし、控え室として与えられた部屋に戻ったときには、こういった外交に慣れていない土方はもちろん、エキスパートである伊東も疲労と緊張で真っ青な顔をしていた。
「今日はあの屁本との折衝、お疲れさん。隣に座っていただけで、ほとんど任せきりになってしまって、すまねぇな」
土方はそう言ってねぎらってやったが、伊東はまだ表情を緩めなかった。
「何か知らないけど、ところを替えて、改めて内密な話をしたいそうだから、ちょっと行ってくる。近くの料亭だって。さっきメモ渡された」
そう言って上着を脱ぐや、胸に巻いていたサラシを勢い良くほどく。唐突にぷるんと現れた小さな乳房に土方が目を丸くしていると、くるくると、左手が利きにくくなっているとは思えないほど慣れた手つきで締め直し、再び隊服をかっちり着込んだ。
実は、伊東はある薬の影響で、女の身体になっているのだ。身の丈や体重は、男の頃よりふたまわりぐらい小さくなっているのだが、仕事の上では一応、男ということになっている。
「大丈夫か、おめぇひとりで」
「いつもこんな調子さ」
『鴨太郎』モードに入っている伊東は口調や目つきも異なっており『おかーしゃん』の帰りを待ち詫びていたはずの陽向も、赤の他人を見るようにキョトンとしていた。
「僕の分の夕食は要らないから。向こうで食べるし、戻っても多分、食欲が無いと思う」
「ああ、そうだろうな。いつも接待の席から帰ってきたら、ぐったりしてるものな」
「せいぜい愛情込めて介抱してくれたまえよ。じゃあ、ひな、いい子で待ってるんだよ」
陽向がコクコクと何度も小刻みにうなづいたのを見届け、伊東が出て行く。
「ちゃんとスタンガン持っていけよ。男んときと違って、弱っちいんだからよ」
土方がそう声をかけると、背中を向けたまま片手を上げてヒラッと振ってみせた。山崎は、扉が閉じたとたんに怯えたように抱きついてきた陽向を抱き上げると「化け調の素質ありそう」とつぶやいた。
「そりゃあ、何年も『鴨太郎』を仕事として演じてるからな。いや、男んときだって、実際のところ、ああいうキャラクターを演じ続けてただけだったのかもしれねぇが」
本人が大丈夫というからには心配なかろうが……土方はそう呟くと、胸元を探った。不安をかき消そうと煙草入れを引っ張りだしたが、幼児の存在を思い出して煙草をくわえるのは思いとどまった。
代わりに、ライターをカチカチと神経質に弄ぶ。
「そういえば、おめぇらずっとこの部屋にいたのか。ひなが退屈しなかったか?」
この控え室も、壁にはゴテゴテといくつもの剥製やタペストリィが飾られてはいるが、家具としては椅子と暖炉があるぐらいだ。しかも暖炉はまだ活用される季節ではないため、鉄の扉で封がされている。
「ちゅるーぱんだしゃーんかめー」
陽向が思い出したように、エプロンのポケットから紙くずを引っ張りだした。それはよく見ると、保古紙で鶴だの亀だのを器用に象った、折り紙細工だった。
「飽きてぐずっていたら、それを聞きつけたのか、秘書の方が遊んでくれたんです」
山崎がそう説明し、壊さないように大事に鞄にいれましょうねぇ、と陽向を促す。陽向はそれを宝物とでも思っているのか、なかなか手放したがらなかったが、壊したらぱんだしゃん泣いちゃうよ、と言われて納得したのか「ないちゃらめ」と、愛用のポシェットの蓋を開けた。
用意された料亭の一室はいかにも密会用といったこじんまりとした和室で、掛け軸には達筆な筆遣いの書が一枚飾られており、伊東は屁本と差し向かいで、朱塗りの膳の前に正座した。
内密な話とはどういう向きのことなのか。攘夷志士についての情報提供になんらかの条件をつけたいのか、それともその見返りとして幕府になんらかの要求をするよう言付けるのか。伊東はその程度に考えていた。それにしては、一向にそういう話題が出て来ないのだが。
屁本は執拗なまでに伊東に杯を勧めながら、土方殿はお子さん連れだというのに、君は結婚はしないのかなどと、たわいもない世間話をしてくる。
「したくない訳ではないのだが、相手がある話だからね」
「それにしても、君だってもう三十路、いい年齢だろう」
「いや、僕はまだ二十代だ」
一瞬、声を荒げそうになったが『落ち着け鴨太郎、男はそこで逆上したりはしない』と、伊東は己に言い聞かせて「屁本殿は奥方殿と、どのような馴れ初めで? やはりこの蝦夷地で?」と、話題を逸らそうとした。
「私かね? 私は独身だよ」
よくぞ聞いてくれた、と言わんがばかりに、屁本は『チャームポイント』がのぞく鼻の穴をぴくぴくとうごめかせた。そのだらしない笑顔に、伊東は(確かに独身なのもむべなるかな)と納得しながらも、そこは外交上手の口先で「そうですか、世の女性は見る目が無い。屁本殿のような地位も名誉もあり、お国への想いも厚く、武芸の腕も立つという英傑の真価を見抜けぬとは」とおべんちゃらを言った。
「そうだろう。まったく、その通りだよ、伊東君。女なんて下等な生き物はね、若さとか外見とか、そういうものに惑わされる、誠に愚かで浅ましい動物なのだよ」
「はぁ。まぁ、それは単に、男性が若くて美しい女性を好むから、でしょうけど。男性に比べれば社会的にも肉体的にも弱い存在ですからね。男性の庇護を得るために愛されるための努力をするのは、女性の本能でしょう」
「そこだよ。女というものは、自分達は弱いと居直って自立と責任を放棄し、あれこれと居丈高な要求をする。土方殿のご息女とて、そうだ。あんな年齢から外見にこだわるのが女の性だ。そこには知性の欠片も無く、ただ見てくれを飾って鼻を鳴らすぐらいしか能が無い。そして一度権利を得ると、その外見を飾ることすら捨て、ただの醜い肉の塊と化すのだよ」
「それも真理の一面ではあるかもしれませんが、子供の罪の無い発言までは……いやはや、屁本氏は、女性に相当苦労なされたのですな」
「おお、理解してくれるかね。やはり、君は私の見込んだ通りの逸材だな」
「滅相もない。ところで、内密の話とは?」
「おや、今がまさに内密な話の真っ最中ではないかね」
「は?」
いつの間にか、すぐ傍らに近づいていた屁本の毛深い手に掴まれ、虫酸が走った。反射的に体を引こうとして、自然と屁本が被いかぶさってくる姿勢になる。
「私はね、愚かな女どもよりも、知性を感じる青年が好きなんだよ」
耳元に酒臭い息を吹きかけられる。護身用のスタンガンは肌身離さず持ち歩いているのだが、畳に力任せに体を押し付けられては、それが入っている内ポケットに手が届かなかった。
「ちょっ、屁本殿、僕にそういう趣味は……!」
「無いのかね? 土方殿を見る目付きに、私が気づかないとでも?」
ああ、なるほど。
伊東が男だと思い込んでいれば、そういう解釈になるのか。特定の性癖を持つ者は瞬時に『同類』を見抜くというが、屁本もそういう部類であるらしい。だが、それは理解できたとしても、ここで流されるつもりは、伊東には毛頭無い。
「それは勘違いだよ。この無礼は内密にしておくから、冗談はやめたまえ」
必死で冷静を装いながら屁本の肩を押して抗うが、男の手はベストとブラウスをめくり上げ、力任せにサラシを引き剥がす。現れた小さな蕾みに舌なめずりして吸い付くと、片手は股間をまさぐってきた。恐怖でのどが引きつって、大声で助けを呼ぶこともできない。もう逃げ切れないと悟って、伊東は顔を背けて固く目を閉じた。
「無い? まさか、貴様、女……」
屁本がそう呻き、その次の瞬間、ドッと伊東の腹の上に倒れ込んできた。
数秒間、何もなかった。
恐る恐る目を開けると、屁本はなぜか気絶しているようで、ぐったりと動かない体を蹴り飛ばして退けても、ぴくりとも反応がない。どういう訳か助かったらしい。体を起こして辺りを見回し、おしぼりを見つけて鷲掴みにすると、屁本に触れられた肌を丹念に拭う。実際の唾液や汗の汚れよりも、触られたという事実を消したかった。
衣服を整えるとすぐに逃げ出したかったが、今後も付き合いがあることを考えて、手帳を一枚引き破いて「このたびのご無礼は、お互いのためにも内密に願います。お約束した情報提供の件はくれぐれも宜しく」と、手の震えを必死で押し殺しながら書き置きをしておく。部屋を出ようとして、唐紙障子がうっすらと開いていることに気づいた。自分が入ってきたときには、しっかり閉めてあった筈なのだが。
いや、唐突に屁本が倒れたということ自体が、第三者の侵入を示唆しているのではないか? まったくその気配は感じなかったのだが。まさか伊東が女であるということのショックで倒れたわけでもなかろうし、興奮のあまりに脳溢血を起こしたのでもあるまい。
だが、その原因を探るべく、あるいは介抱すべく、自分を襲った屁本に触れるなどということは、到底できそうにない。その代わりに、廊下ですれ違った女中に「自分はもう帰るが、屁本氏が酔いつぶれたようなので、介抱頼む」と言い残しておいた。
旅館に戻ってきた伊東が客室に飛び込むと、土方はひとりあぐらをかいて憮然と煙草を吸っていた。なにせ、その旅館は食事はまずいし従業員の態度は悪いしと、散々だったのだ。女将も、土方一家よりもどこかの団体客に愛想をふる方に気を取られていたようだ。それでも屁本の肝入りの宿だというから、表立ってクレームもできない。
ともあれ、土方が「おかえり」という間もなく、伊東は土方にかきついた。その肌身の匂いと温もりに、それまでの緊張感が解けて泣き出してしまう。
「おい、どうした? 何かされたのか?」
『何かというかナニをされかかったけど無事だった』と説明しようにも、タガが外れたようにしゃくりあげるのが止まらない。土方もとりあえず落ち着くまで待ってやろうと思ったらしく、まだ半分以上残っている煙草を灰皿に押し付けて消すと、背中をさすってやる。
山崎と陽向はちょうど風呂に行っていたらしいのだが、室内のただならぬ雰囲気を察したのか、こっそり戻っていった。大広間にはマッサージチェアや卓球台などがあったはずだから、それで遊べるだろう。
やがて落ち着いた伊東は、差し出された鼻紙を使いながら、どう説明したものかと頭の中を整理してみた。
「とりあえず、何もされてはいないが」
まずは、そう言っておくべきだろう。下手なことを言えば、逆上して屁本を斬るなどと言いかねない。いや、それはそれで女冥利に尽きて嬉しいのだが、今後の外交面を考えればここで泣き寝入りしておくべきだ。それをどう納得してもらえばいいのか。
「何もされてなくて、泣いて帰ってくるかよ」
「未遂だったんだ。その、屁本殿はあっちの気があったようで」
「あっちのケ? 確かに鼻毛はボーボーだったが」
「いや、その毛じゃない。衆道だということだよ。念此(ねんごろ)しようとしたらしいのだが、途中で女だと気づいてね」
「ほう?」
「その、互いの名誉のこともあるから、内々にしようと。ただ、その。悔しくて、つい、ね」
「悔しい?」
「僕の胸はそんなに平たいかなぁ。いくらサラシを巻いていたとしても、だよ。触れても気づかない貧相な胸なのかね」
「まぁ、確かにてめぇのはデカくはねぇが……って、胸を触られたのか。ちっと待ってろ。斬ってくる」
「あーちょっ、待て待てっ! その、減るもんじゃなし、それに、僕の男装が完璧だったということが証明されたということでっ!」
「それとこれとはハナシが別だ。いいから、おとなしく待ってろ」
「やだ。それより、ご飯が食べたい。そんなこんなで、美味しそうな割烹だったのが、まともに食べられなかったんだよ」
「飯か? ここの宿はハズレだぞ。温かいモンは冷たいし、冷たいモンはぬるいし、スパゲティはみみずみてぇで、マヨとの相性最悪だし。こんな田舎だから、飲み屋もそうそうに閉まってるし、コンビニもねぇぞ。参ったな。空港で買った菓子だが、そんなんでも良けりゃ」
伊東を抱えたまま、ずりずりと荷物の山の近くに移動して、鞄を漁る。じっとその様子を眺めていると、一個つまみ上げて「ほれ」と口元に運んできた。
鳥の雛のように口を開けてそれに食い付いていると、そろそろ落ち着いた頃合いだろうと見計らった山崎らが戻ってきた。
「おかーしゃんだけじゅるーい! ひなもあーんくだしゃいー」
「デコだけずるーい! 俺も土方さんの膝だっこくださいー」
「おう、ひなはこっちの膝来いや……って、ザキまで来たら、重たいだろーが、ボケ!」
たちまち客室は騒々しくなり、旅館の飯への鬱憤を晴らすかのように、菓子の袋はみるみる空になった。
「屁本殿、昨夜は先に席を外して、失礼した」
「いや、こちらこそ、伊東殿には大したおもてなしもできずに申し訳ない」
昨夜何があったのか知らない者にはどうということもない挨拶だが、知って聞けばこれほど白々しい会話もない。だが、今後のことを思えば、これぐらいの『政治的判断』は必要なのだろう。隣で聞いている土方は、刀の柄に手が伸びるのを押さえるのに必死であった。
「これから伊東殿のご予定は?」
「せっかくの蝦夷地だ。今日は自然を満喫して、明日は銀河屈指という噂の動物園にでも行こうと思ってな」
「なるほど。移動用の足はどうされるのかな。良かったら車をお出しするが」
「いや、公用ではないのだから、昨日のように幕府御用車を借りるわけには行くまい。帰りには、私人として自動車を手配している」
「左様ですか。しかし、何かありましたら、いつでもお申し付けください」
「かたじけない」
お互い顔色ひとつ変えずに挨拶を済ませると、出張所を出た。『出張所』という名称には不釣り合いなほど広々とした噴水付きの前庭を抱えた正面口にはレンタカーが停めてあり、運転席に山崎が座っていた。
「お疲れさまでした。これでお仕事終わり、ですね?」
「まぁ、一応な。山崎君が運転するのかね。誰がどこに座るんだ?」
「俺としては、副長が助手席で、ひよこ親子は後ろって思ってたんすけど」
「後ろじゃ酔うだろ。ひよが助手席乗れや」
土方はそう決めつけると、さっさと後部座席に乗り込んで上着を脱ぎ、スカーフを緩める。後部座席に設置したチャイルドシートにくくりつけられていた陽向は不満そうだったが「パパしゃんこっちでしゅか」と、コロッと機嫌を直した。
伊東も助手席に乗り込むと、座席シートの感触を試すようにもたれながら「ふん、ケローラか。いかにも大衆車だな」と、ボソッと呟く。
「私人として借りてるんでしょ? セシルオが良かったとか贅沢言わないでくださいね。ケローラだって性能いいクルマなんですよ」
山崎がそう嗜める口調で言うと、陽向が「けろーら?」と尋ねてきた。
「そうそう。ケローラ」
「けろ〜らけ〜ろけろかぁえるのこ〜けろぉらつぅにのぉってぇ」
「は?」
陽向がご機嫌で歌い始めるが、寿限無のような節回しにしか聞こえず、何の歌を歌っているのかまったく理解できない。
毛ローラ、エロ化、Lの子ケツ?
なんだそれ。沖田さんに呪いの呪文でも教えられたんだろうか。いや、多分でたらめに歌っているのだろうと、山崎は自分に言い聞かせた。
「かいものにでかけぇたらぁ〜しゃいふないのにきじゅいてぇ〜る〜るるるる〜きょおもい〜てんきぃ〜」
なにせ、音痴とかそういうレベルの問題じゃない。
果たしてこれは歌というカテゴリーのものなのだろうかと、山崎は本気で悩みたくなる。あまりに酷いので昔、この子は耳かアタマかどこか悪いのかと病院に連れて行くことも考えたが、多分、これは遺伝子の呪いだ。
「おっ、ひな。そらぁ、ケローラのCMの歌か。懐かしいな」
「うん」
「こないだテレビ番組でやってたら、覚えてしまったようだよ。さすが僕の子、記憶力がいいね」
オイいいいいい! なんで解読できんだよ! 音痴は音痴同士、何か伝わる音波でもあんのか? それともテレパシーで通じてたりするってぇのか? いや、血が繋がってたら分かるとかそういうもんなのか? それとも逆に俺の音感の方がオカシイとでもいうのか? いやいやいや、俺は正常だからね。オカシイのはあっちだからね。多数決に負けるな退、数の暴力に屈することなかれっ!
「けろぉらつぅにのぉってぇ〜お〜かをこ〜えぇてぇゆこうよぉ〜まぁすぅみぃのそぉらはほんがらかぁにぃ〜かえるのこぉ〜」
いや、駄目絶対、これ間違ってるから! あのCMはこんなタントラみたいな禍々しい旋律じゃなかったから! それなのに、陽向だけでなく伊東まで、鼻歌でそれに合わせて歌い始めたので、山崎はめまいがしそうだった。
「デコ、頼むから歌わないでください。破壊力が二倍になります」
「じゃあ、寝ててもいいかな? 朝早かったから眠い」
「は? アンタ人が運転してるのに、隣で寝るか? ちゃんとナビしてくださいよ」
「地図なんか見てたら酔うじゃないか。そのためにカーナビもついているんだし」
伊東はシレッとそう言うと、伊達めがねを外して上着の内ポケットに突っ込んだ。
女体化は全身の細胞を再構築してなされるため、後天的要素は新しい身体に継承されない。そのため、伊東も今は眼鏡など必要ないのだが『伊東鴨太郎』を演じるために、あえてかけていたのだ。
「ちょっ、使えねぇっ!」
不幸中の幸いは、運転に疲れたら代わってやると土方が言ってくれたことぐらいか。しかし、それにしても助手席に伊東が居座るのが癪だ。そんなラブラブシートを見せつけられるぐらいなら、俺が運転してやんよ……密かにそう決意しながら敬礼する門兵の前を横切り、左右に白樺の並木が続く公道に出た。
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