あのソフトキャンディはママの味っていうけど別に人肉が入ってるわけじゃない。そういえばジンギスカンキャラメルにもラム肉は入っていない【2】


「近藤君のところに養子が来るというのかね? またえらく急な話だね」

今日もまたお偉いさんとの会合から戻ってきて、隊服の上着とベストをハンガーに掛けた時点で力尽きたのか、ぺたりと畳に腰を降ろした伊東は、ずるずると膝で文机までいざって来て伊達眼鏡を外す。

「沖田さんだっていきなり聞かされてびっくりしてる状態なんですよ。ちょっ、スラックス脱ぐまで力尽きないっ!」

お仕事モードである『鴨太郎スイッチ』が切れた瞬間にぐったりするのはいつものことだが、その尻拭いでスラックスに火熨斗を当てるハメになる山崎は、盛大に文句をつけた。

「ちょっと休んだら、すぐ着替えるよ」

「甘ったれないっ! ひなだってちゃんとお着替えできるのに」

その剣幕に、食事をしようと前掛けをつけていた陽向が立ち上がり、ちょこちょこと部屋の片隅から乱れ箱を引きずってくる。

「おかーしゃん、おきがえちてくだしゃい」

「ありがとう、ひな。それで、近藤君はまだ戻ってきてないのかい?」

「そろそろ戻ってくる時間なんですけどね。局長が子供連れてきたってなったら、絶対皆して野次馬行きたがるんで『沖田さんと顔合わせして相性はかって合わなかったら戻すことになるから、局長の口から発表するまで絶対騒ぐな、今夜は局長の部屋には近づくな』って、井上さんが各隊長に指示してました」

「なんでここは、そう物事が全てオオゴトになるんだね」

「大家族みたいなもんですから、仕方ないでしょ。だから今日は出迎えも最小限。なんかあったら、俺の携帯に連絡来ることになってます」

物々しい情報統制を敷いた本当の理由は、組内部の機密漏洩を警戒し、今後も情報の流れをコントロールする必要があるためだ。今回は、図らずもその良いテストケースになったのだが、その意図を正確に理解しているのは、各隊長の中でも古株の連中ぐらいだろう。監察方筆頭である筈の山崎も、コロリと井上の説明を信じている。

「それで、今日はお子様大好きメニューということで、何故か俺が作らされまして。経費は全部沖田さん持ちで、ひなもお裾分けというわけです」

「そんなお子様ランチのようなプレートに乗っているから、ケータリングでもしたのかと思ったよ」

「子供が喜ぶでしょう、こういう方が。これ、手間賃に買ってもらいました。カワイイでしょ。しかもこれ、耐熱だからチンもできるんですよ」

その辺りはちゃっかりしている。

「ひなのはんばーぐ、おはなでしゅ」

おはな? と訝った伊東がプレートを覗いてみると、確かに、甘辛いソースを絡めたハンバーグの上にあしらった薄切り卵とインゲンが、花の形に見えなくもない。

「時間なかったんで、あんまり手を掛けられなかったんですが」

ハンバーグの傍らにはコーンやグリーンピース(多分、ミックスベジタブル)とほうれん草をバターで炒めあわせたものが添えてあり、ドーナツ型に盛られた米飯の窪みには、カレールーが注がれている。見栄えよりも、ソースやカレーの匂いに食欲を刺激されたらしく、伊東の腹がきゅるるると盛大に鳴った。

「お腹すいた。僕の分は?」

「アンタねぇ。ホントは近藤家のメニューなんですよ、これ。ひなはお買い物からお手伝いしてくれたし、自分が作ったから食べてみたいだろうと思って、特別に作っただけで」

「なぁんだ。今日の食堂の夕飯のメニューは何だろうな」

そう呟きながら、伊東がもそもそと芋虫の脱皮よろしくスラックスを脱ぐ。億劫そうに襦袢を羽織り、深緑の地に小さな花を散らした柄の着物に袖を通したその時。
「伊東先生、お兄様がお見えです」と、唐紙障子向こうから呼びかける声がした。

「「「え!?」」」

その場にいた全員の声が重なる。

「お帰りになった局長と同じ車でお見えになりました。こちらにご案内してもよろし・……あ、いらっしゃいました」

「何度もお邪魔させてもらっているから、案内は無用だよ」

ザッザッという砂利を踏みしめる音がしたところをみると、鷹久は正門をくぐって直接、庭を横切ってきたようである。

「ちょっと待ってくださいっ、兄上っ。僕はまだ、着替えの途中で」

「私は気にしないから、大丈夫だよ」

「僕が気にしますっ!」

障子の向こうに叫んで、慌てて着付けようとした伊東の手からぽとりと紐が落ち、拾い上げてまた落とす。
一応、着替えぐらいは自力でできるようになったとはいえ、片手の麻痺が完全に治ったわけでは無い。焦れば焦るほどに手指は思い通りに動かず、伊東は泣き出しそうになり、しまいに「山崎君、結んで。あ、帯、造り帯箪笥の中」と、助けを求める。

「あーはいはい。ひな、伯父さんにご挨拶しておいで」

「あーい。たかおじちゃーーー」

伊東が着替えるまでの時間稼ぎだという己の役割を理解しているのか、陽向は中央ではなく、端の障子に自分が通れるだけの隙間を開けて、廊下に出て行く。山崎は箪笥から出してきた帯を伊東の腰に巻きながら、考えを廻らせた。

土方と鷹久が顔を合わせたら、また蛇と鼬の睨み合いになるのは確実である。孕ませておきながら籍に入れなかった伊東の処遇について未だに遺恨があるうえに、それを置いてもエリート嫌いと生まれついてのセレブで肌が合わない、いわば不倶戴天の仲だ。
さらに、どういうわけだか近藤はこの空気を読めずに「兄上殿、兄上殿」と懐いているのだから困ったものだ。なにもわざわざ連れて来なくてもと恨みがましく思うが、現に来てしまったものはどうしようもないだろう。
ともかく、どうにか土方の帰りを引き伸ばさなくてはならない。とりあえず茶を淹れに行くついでに、携帯に連絡するか。その前に頼むから帰ってこないでくれよ、と心の中で念じる。

「陽向は今日も元気だね」

「あい! おじちゃんはおげんきでしゅか?」

「うん、元気だよ。お母さんは帰ってきたばっかりだったのかな、お着替え途中ということは」

「カモタローチェンジしてまちた。おかーしゃん、もーいいかーい」

障子の向こうから、かくれんぼをしている時のような口調で、陽向が呼びかける。

「山崎君、そこの七宝の帯留取って。ありがと。もういいよ」

その声を待って、今度は中央の障子を開けて二人が入って来た。

「焦らせてしまったかな?」

「突然いらっしゃるから、連絡を先に頂ければ、支度も済ませてお待ちしていたのに」

「江戸城に行ったら、もう帰ったと聞いたものでね。私が先ならば帰りを待たせてもらうつもりだった、とはいえ今日の最終で、常陸の方に戻らなくてはならないのだけれどね」

山崎が卓子の前に座布団を置くのを待って、鷹久はそこに腰を降ろすと、陽向の食卓と向かい合わせの位置になる。

「陽向は、今から食事なのかね?」

「色々とお手伝いをしてくれてお腹がすいたというので一足先に。ひな、伯父さんのお茶を入れてくるから少し待っててね」

「いや、それには及ばないよ。陽向の食事がまだならば丁度いい。鴨、出かける支度をしなさい。陽向も連れて食事に行こう」

「おでかけすゆですか? おはなはんばぁぐたべたいでしゅ」

「そんなものよりも、もっといいものを食べさせてあげるよ。何だねこの出来合いのような食事は。子供にはもっと栄養のバランスを考えて食べさせるべきではないのかね」

土方に連絡が取れていない現時点でこの招かれざる客が退散してくれるのは結構だが、なぜそこまで言われる必要があるのか。山崎が反論しようとした時に、珍しく伊東が「出来合いではないよ。ちゃんと山崎君が、近藤君の家族の分と一緒に作ったって」と弁護したが、鷹久はそれを受け流す。

「僕たちが子供の時には、こんな食事を家で出されたことはなかったし、僕も自分の子供に家でこんな食事なんてさせていないよ。一度、土方君にもきっちりと話をした方がよさそうだね。行こうか、陽向」

立ち上がった鷹久は、陽向の背後に回り込み、くるくると前掛けを外してやる。

「ママのおはなはんばぁぐ、おやさいいっぱいですよ」

「そうかね。陽向はお野菜が好きか。いい子だね」

鷹久は姪の頭を愛おし気に撫でると、表情を一転して「おい君、何をぼんやりしているんだね、早く鴨に羽織を出しなさい」と、冷たい声で山崎に命じた。
誰が『オイキミ』だ、俺はオマエの下僕でも婢でもないぞ。ここに陽向がいなければ、この男を怒鳴りつけてやるのに。我慢しろ俺、子供の前だから我慢しろ俺と、自分に繰り返し言い聞かせ、山崎はその表情を見せないようにうつむいたまま、羽織を伊東に着せ掛ける。

「山崎君、すまない」

小声で伊東が囁いたが、ぎりぎりと奥歯を噛み締めているせいで返事をする余裕も無く、赤い縮緬で出来た手提げにハンカチとちり紙を入れて、陽向に手渡す。

「ママ、いってきましゅ」

「行ってらっしゃい」

山崎は、精一杯の努力の作り笑いを浮かべて、鷹久に手を引かれて振り向きながら歩いていく陽向を送り出した。






やがて土方と鉢合わせをしなかったことに安心するのと同時に、不意に体がずっしりと重くなったような気がして、畳の上に座り込んだ。

土方の正式な妻にはしてもらえなくても、この体でずっと傍に置いてもらえるのなら、その足枷になりたくないからと、子供を持つことを諦めて。その後、同じ方法で女の体になった沖田共々、そもそも化身したのは外見だけで、子供を産む能力は無いことが判明した。

なのに、どこをどう間違えてか伊東まで女の体になって。
しかも『あなたの子です』という伝家の宝刀を持って、割り込んできた。

『デキちまったら責任は取る』と、土方は山崎相手にはそう言っていた。伊東だって、それを期待していたに違いない。
だから、本来なら山崎はそこで追い出される筈だったが、土方は子供こそ認知したものの、なぜか伊東相手にそこまで踏み切らなかった。伊東の腕が利かなくなったため、妻としても母としても役目が満足にこなせまい、というのが表向きの言い訳だが、伊東ほどの家柄ではそもそも家事も子育ても、正妻が直接携わったりはしない。鷹久だけでなく、近藤にまで無責任だ無節操だと責められながら、それでも土方が傍らに山崎を置いておく口実として、押し付けられたのが子供の世話だった。

それまで憎らしくてたまらなかったのに、あの小さなぐにゃぐにゃした塊を抱いた瞬間に、ここに土方の血が受け継がれているのだと実感したら、突然愛おしさが目覚めてきて、もう一人の母親になってやろうと決意した。

だが、結局は陽向は『伊東』の娘で、自分の立場は乳母みたいなもので。こうして鷹久が現れるたびに下女のような扱いを受けることに、いい加減に慣れたはずなのに。
自分と同じように子供が持てない筈だった沖田も、今夜からは母親なのだと思ったら、ずっと忘れていたはずのわだかまりが再び頭をもたげてきた。

「あの子は土方さんの子で、俺は土方さんの嫁なんだから」

畳に爪を立てて、低く呻いたその時、障子の向こう側に人の気配を感じ、はっと顔を上げる。

「おい、ひよ帰ってきてんのか? 開けっぞ」

伊東のことを、女性名の『ひよ』と呼ぶのは、一人しかいない。いや、呼び名を改めることで過去の伊東と現在の伊東を切り離し、無理矢理に己の胸中で折り合いをつける必要が、彼にはあったというべきか。
ともあれ、声の主は、中の返事も待とうとせず障子を開ける。

「んだよ。ザキか。ひよは帰ってきてねぇのか?」

「出かけました」

「なんか会合でも入ったんか? チビスケはどうした?」

テーブルの上に広げたままの特製お子様ランチと、ラフに畳まれている子供用の前掛けに気がつく。

「鷹久お兄様がいらっしゃって、二人とも連れて行きましたよ」

「げ、来てやがったのか。だったら、早く連絡しやがれ」

「可愛い妹と姪とお食事がしたいそうで、連絡する間もなく出て行きました。今夜の内に常陸に戻るそうですから、多分戻ってはこないと思いますよ」

「あの平八め、予告もなしに現れやがるからな。いねぇなら構わねぇや。それよりも近藤さんのとこにガキが来たってメールが源さんから来たんだけどよ。どーいうことだ?」

ほれ、と井上から届いたメールを携帯電話ごと山崎に見せる。そこに書いてあったのは、先ほど伊東に伝えたのとほぼ同じ内容であった。

「局長が、子供連れて帰ってきたらしいんですよ。多分、養子だか養女だかにすることになると思います。それでお子様に喜ぶメニューってことでこれを作らされました」

「はん。ケータリングにしちゃ地味だと思ったぜ。今夜のメシは、オメェの料理か?」

「すみません、これは局長のところとひなだけで。俺等はいつもどおり食堂です。アレが来るって分かってたら作るんじゃなかったな」

溜息のように吐き出されたその言葉に、土方も何かを感じ取る。

「今日はあのヤローに何を言われた?」

「そんなもの食わせるな、だそうですよ。ご自分達も子供の時に家で出されたことはなかったし、ご自分のお子様にも家でこんな食事なんてさせないそうですよ。料理人が作ったものだけを食べて生きてらっしゃる方は、おっしゃることがお上品で」

うつむいて、なおも「せっかくひなが一所懸命お手伝いして作ったのに」などとグダグダ呟き続ける山崎をそのままに、土方は卓子の前にどっかりと腰を降ろした。

「で? マヨは?」

「え?」

「マヨだよ、マヨ」

「マヨネーズが、なんですか?」

「だから、マヨがねぇと、食えねぇだろうが」

「あ、あいっ!」

愛しい旦那は、自分の地味な努力を理解して、代わりに食べてくれるのか。
今鳴いた烏がなんとやら。ぱぁっと破顔した山崎は、部屋から弾けるように飛び出した。間もなくマヨネーズのチューブを握り締めて、バタバタと全速力で駆け戻ってくる。

「お、お待たせしましたっ!」

「遅い。3秒で戻って来いや、3秒で」

土方はニコリともせずに、赤いキャップを外す。プレートのハンバーグやカレーライスは、あっという間に黄色いあんちくしょうの中に沈んでしまった。





一方、子供を連れ帰ってきた近藤はというと。
玄関に出迎えに出たのは沖田を初めとする数人の隊士だけで、いつもの出迎えより少ないその人数に、何か緊急の事態でも起きたのかと身構えるが、井上の手回しによるものと知ってほっと胸を撫で下ろした。

「黙ってりゃ、どいつもこいつも見物に来たがりやすからねイ。判ってっと思うけど、オメェらも触れ回んじゃありやせんぜ?」

沖田が凄みをきかせると、隊士たちはこくこくと富士屋人形のごとく何度も頷く。

「おいおい、総悟。チビがビビってんじゃねーか」

確かに、近藤の足にコアラのように抱きついている『ねお(略)じゅにあ』は、おどおどとした目で沖田を見上げている。

「でも、引き取るって決めてきたわけじゃねぇんでやんしょ? こーいうことは、ちゃんと夫婦で決めることですよねイ?」

「決めて来たというか、なんというか。詳しい話は、俺ん部屋でいいか?」

「勿論でさぁ。じゃ、誰でもいいから俺ん部屋に飯の支度しといてくれや。ザキが用意しておいてくれてる筈だから、食堂に行きゃ分かる」

適当に手近な部下にそう言いつけると、沖田は近藤の先に立って歩き出した。ちょうどそこに、伊東と陽向を引きずるようにして、鷹久が通りがかる。

「あれ、兄上殿、もうお帰りですか」

「ええ、食事にでも連れて行こうと思って」

「おや、お食事なら子供が好きそうなメニューをと、用意させていたのですが。どうです、兄上殿もご一緒に」

その『子供の好きそうなメニュー』を、ついさっき鷹久が「こんなもの」呼ばわりで斬り捨ててきただけに、伊東はギョッとして兄の顔色を伺ったが、鷹久は「いえ、最初のお食事はご家族揃ってがよろしいでしょう。お邪魔をするのは心苦しい」と、シレッと言い逃れてみせた。

「おはなはんばぁぐぅ」

まだ不満そうに訴える陽向の唇に、伊東が慌てて掌をかぶせた。だが、しっかりと口を塞ぐと窒息させるのではないだろうかと慌てて手を緩め、代わりに、誰かがこういうことをしていた気がするというウロ覚えに基づいて、ぽんぽんと軽く叩くようにした。それに合わせて、陽向の声もぽんぽんと途切れて「お・あ・あ・あ・あ・ううううう」という意味不明の奇声にされてしまう。
だが、今度はそれが面白かったのか「お・あ・あ・あ・あ・ううううう」を繰り返し始めた。兄と娘の板ばさみにされた伊東は泣き出したくなる。

「そうですか。確かに言われてみれば、家族水入らずというのも大切ですなぁ。では、今度の機会に」

そんな伊東の苦闘を知ってか知らずか、近藤はにこやかにそう受け答え、鷹久も「そうですね、いずれ」と会釈を返すと「では、行こうか」と伊東と陽向を促した。

「おじちゃん、ばいばい」

近藤の陰に隠れていた『ねお(略)じゅにあ』が手を振った。蚊の鳴くような声だったせいか鷹久は気付かなかったが、代わりに伊東が振り向いた。
伊東は花が綻ぶように笑みをつくってみせると「じゃあ、ね」と手を振り返してやった。





局長室に入るなり、沖田は「電話じゃ何も言ってくれやせんでしたよね? きっちり説明してくれやせんと納得できやせんぜ、俺ん腹じゃガキ孕めねぇから、いつかガキ貰って来ねぇとってのは分かってやしたけど、話が急すぎやすぜ」と、詰め寄った。

「今、順を追って話すから、まず着替えだけでもさせてくれや。ああ、これな」

これが山崎ならパッと乱れ箱の一つでも取り出して甲斐甲斐しく着替えを手伝うところだが、沖田は「へい」と言ったきり、ツッ立っている。近藤も「別に下女を雇った訳じゃないし、総悟はこういう性格だから」と鷹揚に考えているので、別に不満に思うこともなく、のっそりと上着を脱ぐと自分で衣紋掛けにかけた。

「この封筒、何ですかイ? 現ナマでもなさそうだし、何か楽しいもんですかイ?」

「残念ながら、全然楽しくねぇもんだ。ああ、俺が話すよか、それを直接読んでくれた方が早いかもしれねぇなぁ」

着物の帯を自分でクルクルと巻きながら、ふと『ねお(略)じゅにあ』が所在なさげなのに気付く。大体、本人を前にして話すような話題でもなかろう。

「おめぇはあっち側でちっと待ってろな。あぁ、絵でも書いてりゃいいな。紙、紙っと。画用紙なんか無いよな。メモ用紙じゃちっこいだろうし。ああ、カレンダーでもいいか。何か、描くもの描くもの」

袴を履こうとして足だけ通した中途半端な格好のまま、近藤はまだ月が改まってもいないカレンダーを、惜し気もなくべりべりと引き破って手渡し、さらに子供が使えそうな筆記用具を探すが、すぐには見つからない。

「くれよんもってる」

『ねお(略)じゅにあ』は、ごそごそと斜めがけにしていた薄汚れたバッグの中から、つぶれた箱を取り出した。松平公が与えたにしてはやけに古びているので、保護される前からの所持品かもしれない。

「お、そいつぁ、オメェの宝物か?」

こっくりと頷いたのを見届けてから、近藤はようやく袴の紐を結んで支度を終える。
沖田は、亭主が脱ぎ散らかした靴下にチラリと視線を流したが、その『水虫の菌床』を拾い上げることもせず、封筒から紙束を引っぱりだしていた。
それは検察の調書であった。無味乾燥な定型文が多くて難解なことこの上ないが、沖田も警察組織幹部の端くれ、必要と思われる場所を拾い読みしてそこに書かれた事件の概要を読み取ることぐらいはできる。ざっと目を通して、さすがの沖田も「これは」と呟いたきり言葉を失った。




初出:09年05月03日
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