Nicotiana【17】
「沖田隊長? どうしましたか、真っ暗ん中で。明かりつけたらどうです?」
「ばかやろイ! つけてたのが消えたんでイ!」
それもそうですねと、尾形が床にファイルケースを置いて、手探りで入口近くの電灯のスイッチを数回オン・オフさせるが、電気は一向に復旧しない。
「おっ、おがっ、出たの、出たぁ! しの、しのはっ、篠原のゆゆゆゆっ……!」
「篠原さん? 何を言ってるんですか、山崎さんまで」
「だって、真っ暗になって、電気ないのに、パソだけパソだけぇええっ! アレぜったいしのだから、しののにょろいだからあっ!」
べそをかいてる山崎に縋りつかれ、尾形は困惑した視線を沖田に向けた。
「いや、なんでもねぇ。つまり、ちと停電したみたいなんでさぁ」
「そうなんですか。おかしいですね。雷が鳴ってた訳でもないし」
尾形は、山崎を胸元からひっぺがして沖田に押しつけ、ずかずかと真っ暗な中に入っていく。
「パソコンが落ちてないのは、データ消失事故を防ぐために、予備電源に切り替わるからですよ。まぁ、これも少しの間しか保たないし、クーラーまではカバーできないから、すぐにこれで電気作れって言われるんですけどね」
尾形の落ち着いた声を聞いているうちに、ふたりも一度は冷静さを取り戻した。
そうだ、幽霊なんてある訳がない。そうだ、局中法度にもあるじゃないか-----局中法度四十五条、死してなお化けて出る事なかれ、武士たるもの潔く成仏すべし-----。
尾形が、奥のガラクタの山から自転車のようなものを引っ張り出して、部屋の中央に据える。いや、スポーツジムなどにあるエアロバイクの方が似ているか。そのボディからケーブルが伸びて、どこかに繋がっている。
「へぇ、それを漕いで電気を作るんですかイ。面白そうだから、やらせてくだせイ」
「大丈夫ですか? 結構、ペダル重たいですよ?」
沖田が嬉々としてそのサドルに跨がって漕ぎ始めた。しばらく使っていなかったせいか、最初はキイキイと耳障りな音がしていたが、やがてヴォーンという地鳴りのような音に変わる。それから数秒遅れて、チカチカと瞬きながらも電灯がついた。
「懐かしいな。雷とかが鳴るとね、よく篠原さんが大騒ぎしてたんですよ。パソが落ちるとか仕事にならないとかクーラーが切れるから暑いとか。そんで、俺が仕事中だろうと爆睡中だろうと呼び出して、チャリ漕げって……自分で漕いだらいいじゃないですかって言ったら、そんなことしたら疲れるだろうってシレッと答えるんだから、あのひと……当時はムカついたもんだけど」
「ああ、オマエ、篠原によくいびられてたもんな」
「山崎さんの前でこんなこと言うのはナンですけど、今思えば、寂しかった反動つーか、八つ当たりだったのかなって思いますけどね。チャリ漕ぎながら延々とノロケだの恨み節だの聞かされましたよ。副長も篠原さんには未練があるみたいだし、お互い想っててもああいう結果になるって、なんか皮肉ですよね」
「寂しかったからって、副長を裏切っていいわけないだろ、あの負け犬が」
「それもそうなんですけどね。でも、いくら『副長に棄てられた』と思い込んでいても、篠原さんは伊東参謀と違って、副長を殺したいほど恨んでいた訳じゃ……アレ?」
復活した明かりを頼りに停電の原因を探ろうとして、書棚の陰に隠れるように設置されている配電盤に近づいた尾形が頓狂な声をあげた。
見れば、数本のケーブルを手に呆然と突っ立っている。そのケーブルはネズミか何かに齧られたように切られており、その先は沖田が漕いでいる人力発電機と、パソコンラックの下に設置されている千両箱のようなものに繋がっている。その箱が予備電源の装置だろう。
「えっ……じゃあ、なんでさっきパソコンだけ、ついてたんでイ?」
「つーか、この電灯って、どっから電気きてんの?」
次の瞬間、室内は再び暗闇に包まれた。予備電源が死んでいる筈なのに、パソコンのモニターだけが相変わらず煌々と光を放っている。その光に照らされて、誰かが立っていた。
誰か?
沖田は発電機に跨がったまま、尾形は部屋の奥。
「や、山崎? 山崎だよな。そうそう、山崎。悪戯はよしなせぇ」
沖田が発電機から降りて、壁際まで移動する。
四人目など居る筈がないから、あれは山崎だ。なんか山崎とは身体のボリュームが違うような気がするけど、平隊士の隊服を着ているから、あれは山崎なんだと己に言い聞かせながら、スイッチを手探りで探す。
「え? 俺、ここですけど」
上ずって震えている山崎の声は、すぐ傍に聞こえた。じゃあ、あれは誰だ? まさか……と思った瞬間、モニターも消えて完全に視界が奪われた。それとほぼ同時に沖田の手の甲を、柔らかなものがするりと撫でる。
「出たああああああああああっ!」
その悲鳴に何かがプツッと切れたらしく、一瞬にしてパニック状態に陥り、我先に部屋の外に向かって駆け出していた。それからしばらく放心していたらしく、気付くと三人板敷きの廊下にぺったりと座り込んで、お互いの顔を唖然と見詰めあっていた。
「お、沖田さん、いきなり悲鳴あげないで下さいよ。びっくりしたじゃないですか」
「だってよ、手に何かが触って……いいんだよ、俺はガラスのSだから。大体、そっちの野郎だって、男のくせに派手に声あげてたじゃねぇか」
「すんません。でも、お二人の黄色い悲鳴よかマシだったと思うんすけど」
我に返ると妙に気まずく、照れ隠しのように強がりを言い合うが、ふと、沖田が何かを目に留めて頬を引きつらせる。
「ちょ、ザキ、おまえ着物だったっけ」
「え、はい。そうですよ? だってこんな埃っぽい部屋で黒い服なんて着たら、洗濯が大変ですもの」
じゃあ、あの隊服の影は誰だったんでイ……と、口に出して尋ねることはできなかった。その代わりに「てゆーか……オメェそれ、どうするんでイ」と尋ねた。その沖田の言葉に、山崎は恐る恐る自分の手に視線を向け、悲鳴を上げる。その手はしっかりと、先刻の書付を握り締めたままだったのだ。
「こんなもん、未練タラタラの土方さんに見せたら、また事態がややこしくなるし……でも、そのまま捨てたら、絶対祟りますよね、これ」
今すぐにでも投げ捨ててしまいたいのだが、得体の知れない恐怖に体の震えが納まらない。幽霊なんて非科学的なものを信じているわけではないが、一連の事象から考えても、局中法度四十五条違反は明らかだろう。
だとしたら、ただ物理的に紙切れを燃やしたり捨てたりしても、意味は無い。
「じゃあ、神社かどっかに納めて焼いてもらうか、あいつの墓にでも突っ返してくるか」
「いやだぁ! こんな状況で墓地になんか行けるかぁああ!」
山崎は半狂乱で叫びながら、歌舞伎の連獅子のように頭を大きく振って拒む。
「じゃあ、そこの野郎に代わりに行ってもらったらどうでイ」
「俺は別に構いませんよ。たまに墓参り行きますし」
「ダメ、手が開かない」
どうやら、恐怖のあまりに身体が固まってしまったらしい。いや、書付の方で山崎にまつわりついているのか。
「ち、どうしたもんかね。ともかく拝み屋の真似事でもしてみましょうかねイ?」
しばらくの間、沖田は豊かな乳房を抱えるようにして腕組みをしていたが、やがて何か思いついたのか、手をポンと叩いた。
「しゃあねぇ、ちっと来い」
「何? ちょっ、なんすか、沖田さんっ!」
手足がすくんで動けなくなっている山崎を引きずりながら、沖田が向かった先は副長室だった。部屋の主の不在を承知でずかずかと入り込み、辺りを見回す。
「土方さんはライター、どこに置いてるんでイ?」
「え、ライターはここに。いつでも火を点けてあげられるように、って」
いそいそと、それでも妙に誇らしげに、山崎が自分の懐から出してきたライターを突き返して、沖田はごそごそと文机の引き出しを漁る。
「それじゃ駄目なんでイ……どっかにマッチとか隠し持ってねぇのか」
何故かと聞き返そうとした山崎だったが、目的に気がついて、そのライターを引っ込めた。
そういえば、この手紙と、その主が最終的に来たかった場所は、まさにここじゃないか。
ライターなんぞを探している間に、また停電とか、手紙が自然発火したりとかしたらどうしよう。そんなことばかり頭に思い浮かんで山崎がビクビクしていると、沖田が「ビビってねぇで思い出しやがれ!」と、怒鳴りつける。
「とっとと始末つけてぇんだろイ!!」
「は、はい……!」
(この人は、篠原の執念深さを知らないから、そんな強気なんだ、畜生)と、内心毒づきながら、フルセットが入っているはずの煙草盆の小さな引き出しを開けようとした。指先が金具に引っかかる。
「いでっ。あれ、多分、この中だと思うんですけど、ひっかかって開かない、やだもうーーーーーー!」
「代わってやりまさぁ」
ガタガタと煙草盆を揺さぶりながらべそをかいている姿を見かねてか、沖田がそれを引き継ぐ。
「何か引っかかってやがんな、土方コノヤロー。しゃあねぇな」
「何が引っかかってんですか、そんなトコに。手紙とかそーいうの、やめてくださいよ、怖すぎるから」
ただでさえ、篠原の形見のカードを未練たらしく財布に入れていたのだから、そういう可能性は十分にあり得る。結婚写真撮影じゃなくて、そういう祟りそうな思い出の品を一切合切処分してくれと頼むべきだったかと後悔しても、もう遅い。
沖田は小さく舌打ちすると、文机の上から物差しを持ってきた。それを隙間に突っ込んでガタガタやっていたが、しばらくしてすんなりと引き出した。もちろんそんな呪いの手紙など入っている由もなく、どうやらライター本体がひっくり返って、オイルの缶に引っかかっていたらしい。
「よっしゃ、これで準備完了でさぁ。あとこれも持ってついてきなせぇ」
もう何も考えないで沖田に任せておこうと、腹を括ったというよりはむしろ、これ以上の思考を放棄した山崎は、押し付けられた吸殻の山盛りになった灰皿を手にその後について歩き、建物の裏手にある焼却炉の前に辿り着く。
「その書付、足元に広げなせぇ。んで、その上に吸殻全部載せろイ」
「吸い殻を載せる……んですか? そのまま燃やすんじゃなくて?」
疑問に思いつつも、言われた通り山崎が灰皿の中身をそこに開けると、沖田はそれを包んでおひねりのような状態にした。
「土方さんがくわえてたもン、くっつけてやろーってんだ。惚れた男の匂いで、ちったぁ満足すんだろ」
「くわえてたもンって……なんかそーいう言い方すると、間接キスみたいで、妙にむかつくんすけど」
「これからおめーは、土方さん本体、全部貰おうってんだろ? どーせ捨てちまう残り滓くらい、我慢しろや」
本当は残り滓だって、あいつにくれてやりたくはないけれど……ここは譲歩してやるしかない。今までだって散々ケチがついたんだ。これ以上は願い下げだ
沖田が、その呪いの紙包みを焼却炉に放り込む。これも土方の所有物であるライターで火をつけると、瞬く間にのたうちながら燃え広がった。単に炎に舐められて動いているだけだと、頭では理解できても、まるで生き物のようにあえぐ紙片を眺めるのは、あまり気分のいいものではない。
「せんのかーぜにーせんのかーぜになってー」
不意に沖田が歌い出したのでギョッとさせられるが、そういえば、漫画『ギンタマン』で、主人公のギンタさんがこの歌を歌って、スタンドを除霊していたなと思い出す。
「でも、そういえば、この歌って『そこに私はいません』とかいう歌詞じゃなかったでしたっけ?」
私のお墓の前で泣かないでください、そこに私はいません……嫌なフレーズに、ふたりは蓋を閉めた焼却炉をこわごわ眺める。今にも、重い鉄の蓋が内側からこじ開けられそうな、いや背後から肩をポンと叩かれそうな……と、その途端に、背後の植え込みがガサガサと音を立てた。
「ひゃあっ!」
「なんだ、野良猫けぇ、驚かせやがって」
その野良猫が悠然と歩き去っていくのを見送った後も、二人はしばし立ち尽くしていた。
「ねぇ、沖田さん、ちとファミレスでも行きません? 俺おごりますから」
その沈黙を打ち破るように、山崎がポツリとそんなことを言い出した。
「土方コノヤローから、外出禁止令出されてるんじゃありやせんでしたっけ、俺ら。少なくとも、おめぇは」
だからおとなしーくオカタヅケしてたんだろうが、と続けようとする前に「んじゃ、沖田さん先にあそこにもどって作業再開しててくださいよ。俺は無理。ちょっと落ち着くまで気分転換してきますから」と、山崎が歩き出そうとしたので、その腕を素早く掴む。
「馬鹿言え、俺だって一人で戻りたくなんてありやせんや。江戸城に行ってるってこたぁ、まだ戻ってくる時間じゃねぇしな」
登城した時の戻り時間は、大抵夕刻だ。袂から取り出した携帯で時間を確認した沖田の呟きに、山崎も頷く。
「だから、ちょこっとだけ行ってきましょう、一時間以内に戻って来れば多分、大丈夫」
途中で誰かに見咎められるかとも思ったが、二人に出されている外出禁止令のことを知るものはいなかったようで、あっさりと、そして正々堂々と、正面玄関から屯所の外へと出ることができた。頷きあって、ぱたぱたと駆け出す。
黒塗りの幕府公用車が屯所の前に横付けされたのは、その直後だった。
久しぶりのシャバの空気。いやそれ以上にあの得体の知れない気配から逃れられたことに、重いものが一つなくなったような清清しさすら感じる。
「いらっしゃいませぇ、何名様でしょうかぁ」
扉を開けた瞬間のマニュアル通りの店員のその言葉すら、無性に嬉しい。店内に空席があるのを確認して、山崎が『二人で』答えようとした時、沖田の腕が背後から掴まれた。
「誰で……げぇっ!!」
「キャンセルだ。すまねぇな」
頭の上から聞こえてきた、その冷徹な声が恨めしい。それは、まだ江戸城にいるはずの上司であった。
「は?」
何が起きたのだろうと目を丸くしている店員の前で、二人は店の外へと摘み出される。
「何で帰って来てんだよ、土方コノヤローっ。いつもこんな早くに帰って来ねぇくせに!」
「るせぇっ!!」
小一時間は逃げてられると思ったのに、ほんの数分で捕獲されるなんて。これも絶対、あのヤローのにょろいに違いない。
「ぐだぐだ言ってんじゃねぇ!」
二人まとめて衿首を引ッ掴まれて、無理矢理に連れ戻された。
いや、正確に言うと、沖田が小脇に抱えられ、山崎が引きずられて、だ。沖田の扱いの方が嫁よりもマシなのはどういうことだと、山崎が抗議すると、公衆の面前にも関わらず頭をスパーンと叩かれた。今回は多少手加減してくれたらしく、目から火花が出る程度で済んだのだが。
「まったく、外出禁止だって言ったろうが、ボケが」
「だって、出たんですよ、アレが、その……篠原がっ!」
「はぁ? 何バカなことを」
幽霊の話の類いを一切受け付けない(それは現実主義ということもあるが、その手のハナシが苦手という説もある)土方は、片眉をあげて怪訝な表情を作る。山崎らが逃げ出したまま開けっ放しになっている資料室にまずは嫌がる二人を押し込み、部屋の電気を探すべく壁を手探りした。
一瞬、その手の甲にふわりと生ぬるいものが触れたような気がした。
「ザキ、こんな状態で冗談はよせ。電気はどこだ?」
「どこって、だから、さっき、にょろいでパシーンって」
恐怖でなのか泣き出しそうな声は、土方の想定よりも離れた位置から届いた。土方の背筋がゾクッと冷たくなる。いや、さっきのは多分、風だ。蒸し暑いからなぁ、あっはっはっ……それにしても、スイッチは……この辺りにあったはずだが。
「土方さん、アンタがあちこちに粉かけてるから、こんなことになるんですぜイ。この際だ、ハッキリ言ってやったらどうですかイ」
「そうですよ、こんな祟られそうな場所で仕事させるんだったら、それぐらい言ってくれなきゃ、割にあいません」
「うるせぇな、ハッキリって、何を言えっていうんだ」
「アンタ、山崎をどう思ってるんですかイ?」
その問いに、土方は息を呑んだ。真っ暗で何も見えない。
いくら停電状態でも窓から星明かりが届く筈だし、なにより廊下の光が背後から差し込むはずなのに、漆でも塗り込めたような闇が視界を覆っている。
その奥から不意に視線を感じた。その気配が、固唾を飲んで自分の答えを待っている。そして、目の前のこの二人は適当にあしらえても、その気配には嘘は通じないだろう、ということも本能的に分かった。いや、別に幽霊の存在を認めたわけじゃないが。
「嫁、だろ。とりあえず、今は。結婚写真撮る約束だってしたじゃねぇか、これで満足か?」
すすり上げるような嗚咽がはっきりと聞こえた。足元に何か小さな熱がぶつかり、すり抜けて行く気配。いや、確かに『何か』が居た。尾形が床に置いていたファイルケースをそれが蹴り飛ばしたらしく、大きな音を立てて倒れる。そしてパシーンという破裂音と共に、突然、蛍光灯が復旧した。
「じ……成仏した?」
床にへたり込んでいた沖田は、唖然としている。
山崎はそのまま、顔を覆って泣いていた。幽霊だのなんだのとかなり怯えていたから、気が抜けたのだろう。さっき聞こえた嗚咽はどうやら、コイツだったようだ、と土方は自分に言い聞かせた。当然だ、幽霊なんて居てたまるか。
「ほれ、ちゃんと言ってやったから、キリキリ仕事しろや」
土方は殊更に事務的な口調で言いながらも、山崎の背を優しく撫でてやった。
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