地に有れば連理の枝
またあの夢だ。べったりとかいた寝汗を寝巻きの袖で拭った。
何の事故に巻き込まれたのか、脱線し傾いた電車の中、自分は血まみれで左腕を無くしていた。茫然と床に座り込み、外の斬り合いの音を聞いている。そして、引きずり出されるように外に出て、片腕で土方と立ち合って斬られて……倒れて、頬に感じる地面の冷たさが薄れていき、やがて何も感じられなくなった頃に目が覚める。
左手がまだあることに安堵するが、その手が麻痺してうまく動かせない理由は、自分でも分からない。いつからということすら、覚えていない。あの夢と関係あるのだろうか、と首を傾げる。
「おかーしゃん、ずっとねんむしてたや、ぱぱしゃんがしんぱいしてるですよ」
唐突に響いた甲高い声が、神経に障る……だが、乳くさい軟らかい生き物は頓着なしに抱きついてきた。まだ左手よりはマシな右手をぎこちなく回して、ぽやぽやしたコシのない髪を撫でているうちに、ああ、これは我が娘じゃないかと思い出す。
寝起きだからと言い訳するには、あまりにも虫食いだらけの記憶。
ええと、名前は。
「ひな。無理矢理起こすんじゃない。ああ、まだ寝ていて構わないぞ」
「ちがうもん。ひながきたら、おかーしゃん、もう、おっきしてたもん」
そう、ひな……ひなた、陽向。
そして、自分の名前は……また思い出せずに、頭の奥が痛む。
陽向と呼ばれた幼児を抱き上げたのは、黒地に銀モールの上着を羽織った、長身の男だった。切れ長の鋭い目をしているのが、陽向の睫毛の長いぱっちりと大きな目とどことなく似ている。ともに白い肌に濡れ羽色の髪をしていることも、彼らの血縁関係を示唆していた。
この子は僕の子どもだと思っていたけれど。おかーさんと呼ばれたけれど……だということは、この男が『夫』なのだろうか?
「しの、ひなを連れてって、資料室で遊ばせておけ」
「はい」
しのと呼ばれた人物が障子を開けて入ってくる。こちらはすぐに思い出せた。篠原進之進、昔からの付き合いだ。
「じゃあ、ひなちゃん資料室行こうね。でも、お願いだから、パソコンのコンセント抜くのはやめてね」
「うん、あんよ、ぐいってしないように、がんばる」
「ま、子どもは暴れたり悪戯したりするのが仕事だから、仕方ねぇだろ」
「お、鬼上司ッ!」
「せいぜい、ガキが引っ掛けないようにケーブル整理しておいて、データもこまめに保存するんだな」
篠原が陽向の手を引いて出て行き、残された男とふたりきりになる。男は枕元にあぐらをかいて、どこか手持ち無沙汰そうだった。何かを探している気配なのに気付いて「灰皿か?」と尋ねてみる。
「でもどうせ、この部屋には置いてないだろ」
男が指を二本立てて、煙草を吸うジェスチャーをしてみせた。それを見て「ああ、土方君か」と気付く。自分と土方はそういう仲だったのだろうか?
「は? なんだ、今まで忘れてたのか」
「煙草をくわえていなかったから、君が誰か思い出せなかった」
「んだよ、土方十四郎は煙草が本体で、俺は煙草を刺しておく棒的な何かかよ」
「そんなところだな」
僕は本当は、あの時に死んだのではないだろうか……だとしたら、ここに居るのは誰なんだろう。その己の存在を嘲笑うように、記憶が指の間からこぼれ落ちる砂のように消えていく。
まだ、夢の中なのだろうか。それにしては、男の吐息に混じる煙草の残り香がリアルなのだけれども。いや、はっきりとした現実感を伴って感じられたのはそれだけだった、というべきか。
もし、これが夢だとしても、当分は醒めないのだろう。
四十九年一睡の夢一期の栄華一盃の酒……目覚めてみれば、たかが一炊ほどの間なのかもしれない。
「自分の名前は覚えているか?」
真正面から顔を覗き込まれる。灰色の瞳に、自分の姿が写っていた。短くて色素の淡い髪、記憶より丸くて小ぶりなつくりの顔立ち、華奢な身体……自分だというのに、見覚えがあるようで、無いような不思議な感覚だった。ゆっくりと首を横に振ると、土方の腕に抱きこまれた。
「まだ疲れてるんだな。寝ておけ、ひよ」
ひよ? 日夜。
それは僕の名前じゃない……そう思いつつも、その腕の温かさに目を閉じて、ぐったりと身を任せていた。
了
【後書き】当作は短編ですが、本館でも既にいくつかの話に登場している陽向ちゃんのシリーズを引っ張り出すために、どうしても必要なので『いまそしる』同様、早くまとめて出そう出そうと思っていたエピソードです。長いハナシに組み込もうかとも考えたのですが、取急ぎ掲載させて頂きました。
なお、タイトルは長恨歌より。「天にあらば比翼の鳥」から続く句です。 |