Nicotiana【12】
「何ですかイ。この惨状」
雑然と積み上げられた書類の山と段ボール箱に、沖田は思わず声を漏らした。
「何ですかって、資料? 報告書とか押収品とか、検閲品?」
ちらりと山崎が視線をやった先には、小型モニターと映像再生機器、そしてその前に詰まれたビデオテープやディスク……もしかしてアレがこの間、山崎が言っていた『参考資料』なのだろうかと一応聞いてみると、こくりと頭が前後に動く。
「結構あるんですよ、裏に誘拐事件やら失踪事件が関わってたりするのも……八割は、本当に検閲頼まれてる分ですけどね。問題なかったものは、処分前にちょっと活用してたんですよ、大部屋連中は」
つい最近も誰かが使ったのか、適当に積んであったそれを崩れないように揃えて、向き直る。
「まぁとにかく……上司の命令ってことで、諦めて付き合ってください」
二人仲良くこんなところで作業することになった理由は、半刻ほど前に遡る。
「おぅ、山崎。今回のことについては、松平のとっつぁんからお褒めの言葉を頂いたぞ。よくやったってな。」
長官・松平片栗虎に事件終結の報告を済ませて戻ってきた土方の許に、山崎が茶を届けに行った時からだった。
「お役に立てて何よりでした」
いつものように文机の上に茶碗と灰皿を揃えて置き、土方の数歩後ろに腰を下ろす。
「表立っては何も貰えねぇが、とっつあんの懐から酒代にともぎとって来た。方法には甚だ問題ありまくりだが、結果オーライとして不問にしてやらぁ」
「だから、もう芸者の真似事なんて、やりませんって」
「当たり前だ、ったく。もうちっとテメェを大事にしろや」
複雑な表情をしながら隊服の内ポケットを探った土方の手には、高額紙幣が一枚。 差し出されたそれを笑顔で受け取った山崎は、いそいそと懐にしまう。
「自分のことより、あなたのお役に立てることが優先です」
予想通りの模範回答に溜め息を吐き、土方は山崎の頭を軽く小突く。
「それで、だ。俺のお役に立ちたいおまえに、仕事を頼みたいんだが」
「はい、喜んで!」
松平公からも自分の働きを認めてもらえた以上、この鬼上司も女の体だから役に立たない、という考えもしていられなくなったのか。自分の計画が成功したのを確信して、山崎の口元に自然と笑みが浮かぶ。
「まず、今日の夕方、仕立て屋が来るそうだから、総悟の隊服を直しに出してくれ。あの野郎、ちょっとだけって俺のシャツ持って行きやがったまま、返してきやしねぇ」
山崎は、女の身体になっても隊服のスラックスの尻がきつくなったものの、上着は今までと変わらず着ることができた。しかし沖田は、それとは正反対にスラックスのウエストが余り、シャツのボタンは弾けんばかり。ベストに至っては、ナベシャツを着用した状態でも前を留めることすら出来なくなっていた。
「いい加減、どうにかしないとまずいですよね、沖田さんの隊服。上着はそのまま使えるからいいとして、ベストとシャツだけで大丈夫ですよね?」
「近藤さんが、自分の財布から出すって言ってんだ。総悟の満足がいくよう、その辺はおめぇが見てやれ。それと資料室、片付けとけや」
こともなげに言い捨てられたその言葉に、思わず『はぁ!?』と声を上げてしまうと「は? じゃねぇ。『はい、喜んで』と言ったろうが、テメェ」と言い返された。
「この間も言った通り、俺一人でやったら、いつまで経ったって終わりませんよ。無理だから、絶対無理だから」
「誰が一人でやれといった? お、来た来た。これで一人じゃねぇだろ」
不意に土方は誰かの足音を耳にして、障子の方に視線をやる。
「土方さーん。呼びやしたか?」
スパーンと勢いよく障子を開けたのは、沖田だった。
「いや、でも沖田さんは確実に、そーいうことは専門外なのに」
「なんかできることあんだろ、ファイルの並べ替えとか」
なにやら二人の間では会話が成立しているようだが、当然ながら今来たばかりの沖田には、何が何やらさっぱりである。しかも、自分が話題になっているらしいと察すると、沖田は子供のように頬を膨らませた。
「ちょいと話が見えねぇんですが。俺ぁ、土方さんの仕事を頼まれてやれと、近藤さんに言われただけなんですけどねイ? なんか楽しいことですかイ?」
「だから、テメェら二人でお仕事。近藤さんからも、オメェが暇持て余してるようだって言われたしな。何日かかっても構わねぇから、二人で資料片付けとけや。あと、山崎……当分、外出禁止。総悟と仲良く見張り合いしとけ」
「外出禁止って、何故ですか!?」
「あん? 総悟も一緒なら寂しくねぇだろ?」
当然ながら、そんなことを突然言いつけられては、沖田も噛み付いてくる。
「ちょっと待ちやがれ、土方コノヤロー。なんで俺が、んなことしなきゃなんねぇんでさぁ。それに見張りあいって、俺は容疑者かなんかですかイ」
「なんでって、それが片付かねぇと、俺も近藤さんも仕事のメドが立たねぇんでよ。必然的に、オメェら二人のナントカも遠のくというわけだが……別に俺はンなもん関係ねぇから、いくら伸びようとかまわねぇけどよ」
その言葉を聞いた瞬間、煙草を咥えて文机の方に向き直ろうとする土方の手を、沖田はガッと掴む。
「喜んでやらせていただきやす。行きやすぜ、山崎イ」
そんな経緯があって、今に至る。
「こんなだなんて、聞いてねぇ……どーやってこれを片付けろって言うんでイ。オメェ、きちんと整頓しときやがれ」
奥の続き部屋の天井まである書棚も、本来ならばお行儀よく年月順に並んでいなくてはいけないはずなのに、はみ出しているものもあれば、上部の隙間に寝て収納されているものあり、床の上に積まれているものあり。
正直こんな状態だなんて、予想外だった。
『婚期が伸びる』というその一言で安請け合いしたのを、沖田は激しく後悔していた。
「こういうのはホラ、得意な奴がいたからずっと任せてたんですよ、俺らも」
苦笑しながら、山崎はとりあえず拾い上げた書類の年度を確認する。
「誰でイ?」
「……篠原」
その名前に、沖田も黙り込む。
「アレがくたばって……いや、その前に伊東んとこに移ってから、かな……このカオスが発生してんで、いずれどうにかしないといけないと思ってたんですけどね。諦めて付き合ってください。とりあえずバラバラになってるのを、正しい場所に戻すことから始めましょう。表紙の右下に年度と事件ナンバーが入ったシール張ってあるんで、それを正しい場所に放り込んで、番号順に整頓することから始めましょう」
非常にアナログな方法だが、これしか思いつかない。何年か昔に整理させられた時も、まず書棚の資料を順番に並べ直す作業から始めたはずだ。そして同じ事件番号を振った索引カードと照らし合わせ、所在を把握する。土方が『あの事件の資料』と言えば、検索して即、ハイと出せるようにするためだ。
確実に副長は、そこまで要求してるんだろうなぁ。
確か昔は、監察方の後輩らにも手伝わせて、たっぷり四、五日はかかった気がする。今回はそのときよりも資料の分量が増えている上に、サポーターは役に立つとは言い難い沖田だ。
『鬼上司、横暴!!』と絶叫したくなるのを抑えて、山崎はカードをしまってある引き出しを抜いてきて、そのチェックを開始した。
「ザキ。おめぇ、鯉こくと洗いと、近藤さんはどっちが好きだと思う?」
お互い黙々と作業に没頭し、どれ程の時間が経って居たのかは分からないが、不意に沖田が口を開いた。
「は?」
「いや、だから、どっちか答えろイ」
山崎は『なにを唐突に』と訝ったが、ふと屯所の池の鯉に「お妙さん1号」などと名前がつけられていて、それを近藤が可愛がっていることを思い出した。
「さぁ? 俺、それとなく尋ねてみましょうか?」
「そうだなぁ。結婚の祝いの席でも正月でも、ともかくめでてぇ席に、鯉はつきものだと、そう思うだろイ」
「はぁ、そうですね」
ファイルボックスを並べ直している沖田の背中を、山崎は顔を引きつらせながら眺める。顔は見えないが、きっと、あの整った顔はお久しぶりのドSモードの表情を浮かべているに違いない。
そこに「おおい、差し入れだぞ」と近藤の声が割り込んだ。
山崎は、沖田が反応するよりも早く、部屋を飛び出した。
「局長、ご相談が」
周囲をというより、背後の扉の向こうを伺いながら、抑えた声色で呼びかける。
「ん、なんだぁ」
「大きな声を出さないでください。局長は、鯉こくと洗いのどちらがお好きですか? 沖田さんが『局長はどっちが喜んでいただけるか』って悩んでらっしゃいますよ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった近藤だったが、数秒の後理解したらしく、顔が引きつる。
「まさか、総悟が? いや、まさか」
こくりと頷きその「まさか」を無言で肯定した瞬間「近藤さん、差し入れって何ですかイ」と、沖田がひょっこり顔を出した。
「お、おぅ。ミセスドーナツの新作あったから、買ってきてやったぞ」
「さーっすが、近藤さん。ザキ、茶ぁ入れてくれ」
その場ではそれ以上話すこともできなかった。その後、風呂や食事時にも近藤と接触を図るが、近くに必ず沖田がいるためうまくいかない。
丸々と太って食べ甲斐もありそうな連中だが、名前が名前だけに、なんだか食中毒でも起こしそうな気がしなくもなく、結局……思い余って山崎が土方に相談すると、サラリと「川にでも放してやれ」と返された。
「そんなアッサリと」
「引き取れそうな池があるって言ったら、あの柳生家くらいしか思いつかねぇがな。ま、あのオトコオンナだったら『お妙さん1号』『お妙さん2号』という名前が付いてると聞きゃあ、引き取ってくれるかもしれねぇし」
「あ、なるほど! じゃあさっそく、連絡をとりましょうか」
「だが、まずいな。そんな名前つけて可愛がったら、なんていったっけ、あのオトコオンナに懸想してる糸目に、焼き魚にされるにちげぇねぇ」
「やっぱ、野生に帰ってもらうしかないんですねぇ」
「あんな名前がついてんだ、逞しく生きるだろ」
「俺ひとりで、池を浚えと?」
「文句あんのか? まぁ、平松武兵衛が捕まって、尾形と芦屋ぐれぇは、ちと余裕できたかもしんねぇな」
その夜遅く、沖田が寝つくのを確認した後、山崎、尾形、芦屋の監察方三人は頭にライトくくりつけて、池の中ざばざばと鯉を追い回すハメになった。
しかし、飼い主の心ペット知らずというか、助けてやろうというのに『お妙さん1号〜5号』は必死で逃げまどう。
「頼むから、静かにやってくれ。総悟にバレたら即、食卓行きだ」
食卓行きって言っても、沖田隊長って料理できたっけ? 鯉の叩きとかいって、凄まじい惨殺死体を皿に盛りそうなんだけど、とは皆敢えて言わない。
「そうは言っても、こいつら逃げるんですもん。池の水、抜いちゃったらどうでしょうかね?」
「水抜いて朝までに戻せりゃいいが、逃がしたと総悟にバレたら、大変だぞ」
手伝わず見物を決め込んでいる土方は、言葉とは裏腹にこれっぽっちも心配していない口調で言い放つ。
「分かりました。水抜きます。局長、沖田さんが起きちゃったら、後のフォローはよろしく」
ごそごそと足先で排水孔を探った山崎は、身をかがめると、その栓を迷わず引き抜いた。
明日もまた資料室で一日沖田と顔を突き合わせることになるのだから、とっとと済ませて証拠隠滅を図った方がいい。それに『上官命令で逆らえなかったんですぅ』という伝家の宝刀もあるわけだし。
「起きちゃったらって、一体俺にどうしろと!? なぁ、トシどうしたらいいんだ!?」
「知るか。大体、名前が悪いから、恩知らずになるんだ」
「そんなことないもん! お妙さんはお淑やかで美しくて、菩薩のような人なんですぅ! 恩知らずになんかじゃないんですぅ!」
「総悟の前で同じ台詞、言えっか?」
「む、そらぁ無理だが。それはあくまでも、総悟が拗ねるから遠慮して言えないのであって、お妙さんが菩薩のような人であることに、変わりはないのだ!」
アレのどこが菩薩ですかと、一同、シラーッと冷たい視線を近藤に送る。
きっちり志村妙と縁を切って来たとはいうものの、一度染み付いた思考パターンというものは、そう簡単には変えられないものらしい。
徐々に水位が下がってきたので、監察組は池の中に網を入れて、本格的に追い込みにかかる。
「いーっ! すべるすべるっ!!」
まずは、山崎が一匹目を金太郎状態で抱えて確保しバケツに放り込むと、近藤が「あああっ、お妙さん3号っ! 大丈夫かっ!?」と喚いた。
「心配するより先に、局長も手伝ってくださいよ。第一、アンタのペットでしょう、こいつら」
なにせ、相手は四匹残っているのだ。山崎がタモ網を押しつけると、近藤も潔く着物の裾をからげて、赤フンも露わな格好で池に入って来た。
「モリで突いて捕まえるんだったら、いっそ早いのにな」
子供の頃から海辺で育っただけにそういうことが得意だという尾形の言葉に、土方が「ゴリラ女の名前付いてんだから、刺しても簡単に死にゃしねぇだろ」と、同調する。
「だめだから、ダメ絶対! らめぇええええっ!」
絶叫した近藤の隣で、芦屋がしみじみと「鯉の洗い、食べたかったなぁ」と呟きながら、次の獲物を追い込みにかかる。
「どうせパンの耳だの麩だの食わされてる鯉だ。そんなに美味くはねーだろ。そう思っておけや。ほれ、さっさと捕まえろよ」
たかが鯉の捕獲に、こんなに手間取るとは思っていなかった。一応カラダは女である山崎の腰を冷やすのではと、今更ながら不安になってきたこともあって、土方が発破をかける。
一方、そんな上司の計らいなど気付かぬ山崎は、鯉の尻尾を捕まえてバケツをよこせと叫び、それを渡した芦屋の前で元気よく跳ね回る鯉の姿に、また近藤が「お妙さん4号ぉおおおおおおお!」と喚く。
「だから、てめーら喚くなって。総悟が起きるぞ」
その土方の呟きに部下三人は揃って口をつぐみ、一番大声で喚いている飼い主は「トシよぉ、オメェも見てねぇで手伝ってくれよ」と、情けない声で訴えた。
「俺ァ見張り役だ。つか、水抜いてんじゃなかったのか? なんか途中から水減ってねぇな。排水孔、尾形の辺りだろ。なんか詰ってるんじゃないのか? つか、ドンくさいのが1匹ハマってるかもな。ちょいと見てみろや」
土方は事もなげにそう言い放ち、悠々と煙草を燻らす。
指名された尾形が脚でちょんちょんと排水孔を探ってみると、なにやら動く感触があった。逃がしてなるものかとむんずと掴んで引き上げる。
「とったどー」
獲物を見せびらかす漁師のごとく、尾形はびちびちと暴れる鯉を高くかざす。
「ああっ、1号っ」
なんとも悲しげな声で名前を呼んだ近藤の目の前を、別の一匹が横切った。芦屋が素早くそれを追い、タモで掬い上げる。水に腰まで浸かってここまで動けるのは、やはり彼等が監察方の一員だからだろう。近藤は右往左往しているのが精一杯のようだ。
その点、自分では池に入らなかった土方の判断が正しかったといえよう。
「おう、5号! ああ、鱗がこんなにはげてしまって!」
一体この人は、どうやって鯉を見分けているのやら。全員揃ってそんな疑問を抱きつつ、ラストの一匹を探す。
「水草んとこにでも潜っちゃったかな? うひゃあっ! 俺の足元っ!!」
水面にじっと目を凝らしていた山崎だったが、ぐにゃ、ともなんとも言いようのないものを蹴り飛ばし、反射的に悲鳴を上げる。
「まさか踏んだのか、貴様っ!」
問いただす近藤だが、その隣からは「死んじゃったら鯉こくで食べましょうよ」「洗いでもいいですって」などと無責任な声が上がる。
「だから食っても、美味くねぇって……ザキの前、泥舞ってる辺り、ちっと掬ってやれ」
苦笑しながら土方が指差した辺り目掛けて、芦屋がタモを突っ込む。大きく動かして、何かずっしりとしたものを掬い上げた。
「確保! あれ、これ、ナマズだよ? こんなの池にいたんだ。鯉こくはどこー?」
「そーいえば、スッポンとかもいなかったっけ、この池。鯉こくやーい」
確か、池にはカエルも居た筈なのだが、最近あまり姿を見かけないのは、この大ナマズに食われたせいなのかもしれない。
「鯉こくじゃないから! お妙さん2号だからっ!」
訂正をした近藤の背後でぴちぴちと何かが跳ね、全員の視線がそこに集中する。
「おお、お妙さん2号っ!」
飛びついて抱擁しようとしてつるりと逃げられ、そこに尾形が手を伸ばす。
「こら、逃げるな、鯉こく」
「だから、鯉こく違ぁあああああぅっ!」
「洗い2号、確保」
網の際まで追い込まれてきたのを、簀巻き状態で山崎が押さえ込む。
「洗いでもないいいいいっ!」
「だから静かにしろと。ほれ、いいから、このバケツ持って、さっさと江戸城掘にでも行って来い。なんか一番隊詰め所、電気ついたみたいだぜ?」
ようやくミッションが終了したことにホッとする間もなく、まだ次の作業が残っていることを思い出す。
「そうだ、復旧作業、復旧作業!」
転がっていた栓を排水孔に詰め直し、慌てて水道のホースを池に放り込んで、全員池から上がってくる。
「あーあ。全部ぐしょぐしょ」
ぶつくさ言いながら山崎が、ぺてぺてと土方の前に歩いて来た。
今まで暗くて分からなかったが、服が濡れて身体のラインがモロに浮き彫りになっている。さすがにこの状態を人目に晒すわけにはいくまい。尾形と芦屋はあえて事情も聞かずに見て見ぬふりしてくれているが、彼らとて健全な男子、これは目の毒だろう。
「江戸城堀には、尾形と芦屋で行って来い。ザキ、風呂入れ。見ててやっから」
「え、いいんですか?」
優しい土方の言葉が予想外だったのか、山崎はきょとんとした顔になる。
「いやなら、あいつらと一緒にバケツ持って走れ」
「いえ、ありがたく風呂いきま……っくしゅ!!」
土方は舌打ちすると、上着を脱いで山崎の肩にかけてやった。
「ち、こんなに手間取るとはな」
「名前が悪いんですよ、あんな名前付けるから無駄に暴れて」
「まったくだ」
それを横目に「山崎さん、いいなぁ」と、尾形と芦屋が声を揃えて呟く。
彼らも土方は憧れの対象なのだ。その、体臭と煙草の匂いが染み付いた上着なんて、オカズどころか超豪華ディナーだ。だが、いくら羨んだところで、おこぼれに預かれる由もない。土方にジロリと睨まれ、慌ててバケツを抱えて駆けて行った。
近藤は、皆が立ち去ってからも、池の縁にしゃがみ込んで「そんなことないもん。お妙さんは。いや、後ろを振り替えるないさお、ポジティブなことだけ考えろいさお、そうでないと、あのナマズの二の舞いいさお」などと、ぶつぶつと呟いていた。
すっかり水が抜けて水垢と水草と泥でヘドロ状になっている池の底で、先程の大ナマズがのたうっている。水嵩が増して、ナマズが「酷い目に合った」とばかりに、身震いした。それに驚いたのか、騒ぎの間は隠れていたらしいスッポンが、今さらのようにニュウと顔を出した。
「へっ、まさに月とスッポンだな」
見上げた月はやけに明るかった。
「山崎イ……山崎イー…やーまーざーきーぃ!!」
そんな声と共に、腹の上に乗っかった何かが自分の体を揺さぶっている。
『んだよ、こっちは夜中まで水遊びさせられてたんだぞ、もう少し寝かせてくれよ』と喚きたいところだったが、夢うつつでも声の主が誰かを認識して、その言葉を飲み込む。
「沖田さんどうしました、随分早起きですね」
寝起きのいい山崎だが、さすがに深夜の時間外労働はこたえたのか、イマイチ覚醒がすっきりしない。
「早起きじゃねぇよ、もう六ツ半(午前七時)回ってますぜイ」と沖田に言われて、慌てて枕元の携帯を掴み上げて、時間を確認する。
「げ。本当だ。起きますから、どいてください」
昨夜、一足先に風呂を使わせてもらった山崎は、尾形と芦屋の帰りを待つことなく、寝つぶれてしまったのだ。あまりにも寝つきが良すぎて、土方が心配すらしたのだが、本人はそんなことなど知る由もない。沖田が体の上から降りるのを待って身を起こし、ぱしぱしと数度自分の頬を叩く。
「珍しいなぁ、おめぇが寝過ごしてるなんて。そんなに昨夜は激しかったんですかイ?」
「えぇ、もう激しすぎてくたくたですよ」
答えながらふすまの方に視線をやると、その向こうの副長室から土方の「あー」とも「うー」とも言えない声が聞こえてきた。どうやら土方も今頃目を覚ましたようである。
「何ですかイ、今日は非番だからって、遅くまでサカってやがったんですかイ」
「るせぇ」
沖田がすぱーんとふすまを開けた。ぼーっとした視線のまま煙草を咥えている土方の傍に、ずかずかと歩み寄る。土方の首筋と胸元になにやら赤い跡があるのを、見逃す由もなかった。
「なにやら可愛らしい虫に食われたようで」
「あぁ、蚊の時期だしな」
「自分は非番だからって、いつまでも励んでちゃいけませんぜ。んで、ザキにも食いついたってぇ訳ですかイ」
沖田のニヤニヤ笑いに、誤解だと釈明しようとした土方だが、その沖田の背後で山崎が口の前に指を立てて合図を送っているのに気付き、チッと小さく舌打ちして口をつぐむ。
「で、沖田さん、どうしたんですか? 朝っぱらからこっち来るなんて」
「近藤さんが来ねぇから、メシ食えねぇ。腹減った」
どうやら、近藤も深夜の大捕り物の疲れで、まだ起きていないらしい。
だがさすがの沖田も、その身体では一人で食堂に行けない。土方に頭を下げるのは真っ平だ。もちろん山崎だって同じ身の上なのだが、他に沖田の身体の事情を知っていて頼めそうな相手もいないということで、消去法的に山崎を頼ることにしたらしい。
「アンタって人は、まったく。とりあえず、部屋で待っててくださいな」
下手に追及されないうちに沖田を追い出し、ハァと溜息をつく。
「何か誤解されたみたいですけど。その分は、局長への『貸し』ってことで良いんですよね」
「夜中にあんなところにいりゃ、蚊にも食われまくるわな、お互い。その『貸し』は後で俺が取り立ててやっから、とっとと総悟んとこ行ってやれや。飯も、俺が持っていってやらぁ。A定食でいいな?」
はーい、という返事と共にふすまが閉ざされ、向こうから着替えをしているらしい物音が聞こえてくる。
土方は新たな煙草に火をつけると、その向こうに「で? 片付けはどんくらい進んだんだ?」と、問いかける。
「全然。二人で片付けようってのがそもそも無謀なんですよぉ。まだ資料の並べ直ししてる段階です」
「最初から、おめぇらがちゃんと片付けときゃ、そういうことにならなかったんだからな。今後はその都度ちゃんと片付けるよう、全員努めるこったな。時間はまだあんだから、きっちりやれや」
そうきっぱり言い切られてはどうしようもなく、今日も再び資料室のカオスとの戦いがスタートした。
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