Nicotiana【5】
女なんて肥溜めから生まれてきたモンよ……というのが、巫女にしてキャバ嬢の阿音の持論だ。それは意地汚いまでにエグい手口を使ってでも、神社の再興のためには客から売り上げなくてはいけない自分への一種の免罪符だが、それは同時に、ライバルでもある同僚にも平等に向けられる。
「どうしたの、お妙。今日はやけにしんみり、あのゴリラと話してたじゃないの」
開店して間もなく、夜はこれからという時間帯だった。控え室で厚化粧を塗り直しながら、阿音がそう声をかける。
「そう? 別になんでもないわ。ただ、これからはあのゴリラ、あまり来れなくなるっていうから、新規のお得意さんを捉まえなきゃいけないなぁ……って、思ってただけ」
「ふーん? 別に無理しなくてもいいのよ? アンタ、寂しいンでしょ」
女なんて蝿みたいなもんよ。
捕まえようとしたら逃げるくせに、無視しようとすれば付きまとって離れない。
お妙の態度を見ていれば、いつかはこうなることぐらい、阿音には分かっていた。いくら冷たくしても、どうせ犬かなんかのように、尻尾を振って付いてくる……ぐらいに思っていたに違いない。
それをあえてアドバイスせずに黙っていたのは、ライバルを蹴落としたい気持ち半分、他人の恋路に口を出す野暮をしたくない気持ち半分……いや『蹴落としたい』が9割だろうか。
「寂しいだなんて、そんなこと……」
「あのゴリラ、結婚するんでしょ、違う?」
「なによ、聞いてたの? 意地悪いわね。でもまぁ、結婚したぐらいで、遊ぶ癖なんて抜けないわよ。大体、阿音、アンタの客には妻帯者が多いじゃない」
「ねんねのアンタには、妻帯者の客なんてつかないわよ。あのゴリラ、舞い戻って来たら、アタシのお客になって貰おうかしら」
「なんですって」
「まぁ、せいぜい頑張るのね」
からから笑いながら、阿音は控え室を出た。別に指名コールが聞こえた訳ではない。室内履きのまま、こっそりと裏口から店外に抜け出す。
案の定、店からそう遠くない立ち飲み屋に、しょげ返っている黒い上着の背中を見つけることができた。おでんの四角い鍋がカウンター向こうにあり、まだ少し早い時間のため、他の客は数人しかいない。
やれやれ、だらしのない。
これだから男は、その蝿の股から生まれた、ウジムシなんだ。
「結婚すると言えば、引きとめて貰えると思ってた?」
挨拶抜きでそう囁くと、近藤とかいうゴリラ男が、ブッとコップ酒を噴き出した。
「汚いなぁ、お客さん、勘弁してくださいよぉ」
禿頭に鉢巻きを巻いた店の親父が、情けない声をあげる。阿音は苦笑しながら、たもとからポケットティッシュを取り出すと、近藤の前のテーブルを拭いてやった。
「アンタ、確か……お妙さんの店の」
「阿音」
いつもだったら、ここで胸ポケットに名刺を差し込むところだが、今回はあえて遠慮した。結婚を控えているという男にキャバクラの名刺を押し付けるほど、阿音も野暮天ではない。
「アンタ、その縁談、迷ってるんだ?」
阿音はそう言うと、店の親父に「冷やで」と告げた。
「捨てたりしねぇでくれますよね、なんて言いやがるんだ」
「あら、いいじゃないの。色男ね」
「でも俺ァ、お妙さんも好きなんだ……皆は、脈なんかねぇって言いやがるけどよぉ。でも、お妙さんはいつも我慢して我慢して、なかなか本音を出さない人だからよぉ。きっと腹の底では俺の気持ちを分かってくれてるって信じてるからよぉ」
阿音はにっこり笑いながらも、腹の底で(ウジムシが……)と呟いていた。
「それで? お妙に話して引き止められたら、その縁談を断るつもりだった?」
「そっちも、どう断っていいか分からねぇんだがな。その、昔からの付き合いで、まったくそんな目で見たことがなくて、弟みてぇに思ってたから」
「弟? 男なの?」
「あ、いや、その、妹って感じじゃねぇから……つか、今はちゃんとオンナノコだし」
「ふーん? まぁ、いいけど」
阿音はコップ酒を受け取ると、一気に煽った。タダで飲むドンペリも悪くないが、身銭を切って飲む安酒もたまにはいいもんだ。
「でも、相手には好かれてるし、惚れられてるのね」
「そう……なるんかな。まぁ、そうだな」
近藤は何を思ってか、半分に減ってしまったコップ酒を見詰めている。阿音は、空になった自分のコップを弄びながら「惚れた女よりも、惚れてくれる女の方がいいんじゃないかなぁ」と呟いた。
「そういうもんかなぁ」
「そういうもんよ。お妙は、アンタが結婚するって聞いて、なんて答えたの?」
「お幸せに……って」
「あらあら」
阿音は苦笑しながら「もう一杯」と注文する。
惚れた男がよその女と結ばれると聞いて「幸せになって」だなんて言えるのは、よほど出来た女だ。女というハエ野郎は、男ほどには寛大じゃない。大抵は「不幸になればいい」と考えるものだ。それを、いくら社交辞令とはいえ、いけしゃあしゃあと「お幸せに」とは、ね。
「その人と幸せになって、見返しておやんなさいよ。やっぱりアンタとくっついていれば良かったって、お妙が悔しがるぐらいに」
「それは……お妙さんに失礼だろう」
「お優しいことで」
くいっとコップ酒を煽った阿音のなだらかな喉のラインが動いているのを眺めながら、近藤は「アンタこそ優しい人だな。まるで観音様のようだ。わざわざ俺を慰めに来てくれたのか?」と、つぶやいた。
「まさかアンタ、俺のこと……?」
「勘違いしないで。営業活動よ。もしもまた悩むようなことがあったら、阿音を指名して頂戴。愚痴のひとつも聞いてあげるわ」
阿音はそういうと、空にしたコップをタンッと音を立てて置いた。
「おじさん、お勘定……このひとの分も」
そして、有無を言わさずに紙幣を親父に押し付けると、暖簾をくぐった。
「すまねぇ、その……ありがとう。おねーさん」
近藤の声に立ち止まることも振り返ることもなく、背中を向けたまま、阿音の白魚の手がひらっと揺らいだ。
近藤はしばらく唖然と阿音の背中を見送っていたが、やがて首を振って立ち飲み屋を出た。夢遊病のように繁華街を歩いていたが、やがて喧騒を離れて川縁に辿り着く。柳の大樹が流れを覗き込むように植わっていた。
熱帯夜特有の生ぬるい風が、耳元をけだるく通り過ぎる。見上げると、空を行き交う飛行船の誘導灯が赤く点滅するばかりで、弱々しい星明かりなどはかき消されている。
俺はどれだけ長いこと、星が健気に光っているのを気付いてやれなかったのだろうか。目に見えないことと存在しないことは、イコールではない。
近藤は懐から一葉の写真を取り出した。こっそり隠し撮りした想い人の姿……太陽のようにまぶしい笑顔、誰からも愛されるだろう笑顔、自分にはついぞ向けてくれなかった笑顔……立ち止まって、それをひらりと宙に放り投げた。
風に吹かれてくるりと舞っている様には目もくれず、居あい抜きにした太刀を振り下ろす。
「御免ッ」
次の瞬間には、チンッという音と共に太刀は鞘に納まっていた。大きく一歩踏み込んだために、己の膝の上に屈みこむ姿勢で静止した近藤の後方で、まっぷたつに両断された写真が川面に落ちて、流れていった。
そのままの姿勢で数拍、近藤は動かずに呼吸を整えていた。じっとりと滲んだ汗が額から顎へと伝い流れる。やがてノンキな電子音のメロディが流れてきた。我に返って身体を起こし、隊服の上着の内ポケットから携帯電話を取り出すと、耳に押し当てる。
「そ……総悟?」
『近藤さん、すいやせん。ようやく腹ァ減りやした』
そういえば、腹が減ったら電話しろと言っておいてたんだっけな……腕時計を見ると、戌の刻(午後八時)を大幅に回っていた。
「ドクドナルドのバーガーでいいか?」
『寿司とか、いけやせんか? コンビニのんでもいいんで』
「おめぇ、昼飯抜いたのに、そんなんでいいのか?」
『今日、一日部屋に閉じこもってたから、油っぽくねぇのがいいやァ』
「おう、分かった」
本当に電話をしてきた沖田がなんとなく可愛らしく思えて、近藤の口元がつい緩む。通話を切って携帯電話を折り畳んだ頃には、近藤はすっかり気持ちを切り替えていた。
やれ市中見廻りだ、やれ報告書だ、やれ厠掃除だと、仕事に追われている時は、一日ごろごろしてテレビでも視ていたいと思っていたものだが、実際にやってみると案外つまらないものだ。いや、そういうときに限って、テレビ番組がつまらないのかもしれない。ともあれ、ワイドショーにはすぐ飽きた。
さらに皮肉なことに、いくらでもできると思うと逆に、ゲームもネットも殊更にやろうという気にはなれないものだ。
昼に胸のサラシを解いてしまったので、山崎の携帯電話にかけて、巻き直すのを手伝ってくれるように頼むと「アンタ、どんだけ今朝、苦労したと思ってるんですかっ」と喚かれた。
「だって便所行きてぇし」
「今すぐですか? 俺、原田さんにつかまってるんだけど」
「漏れる」
漏れるというのは冗談半分の、些か大袈裟な言い草だが、実際に身体の構造上の影響なのか、あまり小用の我慢はきかないような気がする。根本的に尿道の長さが違うし、新しい体の形にまだ馴染んでいないせいもあるだろう。
「マジすか? 困ったな……そうだ、部屋にガムテープありますか?」
「ガムテープ?」
「そいつを今朝のサラシの要領で、シャツの上からぐるぐると、締め付けながら巻いてみてください。とりあえずの応急処置ですが」
「なるほど、ガムテープなら貼り付いてっから、緩んでこねぇってことけぇ」
……そういう訳で、怪人防毒マスクもとい、近藤が助六弁当を提げて戻ってきた時には、沖田はTシャツの上にガムテープを巻き、その上から羽織袴という格好であった。
「済まねぇな。遅くなった」
待ち人来る。沖田の表情がパァッと明るくなったが、その近藤の後ろに土方の仏頂面を見つけて、露骨に嫌な表情になった。
「土方さんが、何の用でぇ」
「知るか。俺はこの防毒マスクに呼ばれたんだ……んだ、ザキは一緒じゃねぇのか?」
クソ忙しいのに……とブツクサ言いながらも、鬼の副長であろうと、近藤だけは頼まれればイヤとは言えないらしい。
「こういうことは、第三者が居る方がいいと思ってよ」
「こういうことォ?」
土方が畳にどっかと胡座をかき、沖田もその隣にちょこなんと正座する。
「近藤さん、その前にメシ」
「すぐ済むから、ちっと待て」
卓子の上に乗せられた弁当に、沖田の視線が流れる。本当にお腹が空いて、目が回りそうなのだ。だが、生真面目な表情を作っている近藤の気迫に負けて、なんとかコンビニ袋から視線を逸らした。
冷めてもいいというか、もともと温かくはない弁当で良かった。
「さて。俺なりに今日一日、いろいろ考えてみたんだが……俺ァ、おめぇの気持ちに応えることにした」
居住まいを正して重々しく近藤がそう言い切ったが、言われた沖田本人は(空腹も手伝ってか)一瞬、その意味が理解できなかったらしく、キョトンとしていた。代わりに反応したのは土方で「正気か、近藤さん!?」と喚きながら、近藤の胸倉を掴んでいた。
「色々踏まえた上でどうするかは、アンタの判断に任せる……って言ったのはトシ、おめぇだろが」
「いや、確かにそうは言ったがな。ああ言ったら、ちったぁ考えるだろうがよ、フツーはっ!」
「だから、考えた結果なんだってば」
「んなっ、どーいうモノの考え方したら、そういう結論に辿りつくんだよ! いいか、総悟は男なんだぞ」
「今は女でさぁ」
「おめぇは黙ってろ! いいか近藤さん、今まで男として生まれ育ってきたコイツを嫁にするって、どういうことか分かってんのか? 戸籍だって直してやらねぇといけねぇし、隊士らに対する面目だってあるだろうし、第一、総悟を嫁にとりますって、身寄りのねぇコイツはともかく、アンタの実家にはなんて説明すんだ?」
「そんなもんは後で考える。やってみりゃあ、案外なんとかなるんじゃねぇかな。ほれ、案ずるより産むが易しっていうだろが」
「産めるかっ!」
「トシ。男が真剣に考えた結果なんだから、後からごちゃごちゃ言わねぇでくれ。今日はおめぇには、単にその、立ち会い人として聞いて貰いてぇんだからよ」
沖田も徐々に飲み込めてきたらしく、頬が桜色に染まっていく。土方が居なければ、感激のあまりに飛び付いていただろう。土方の同席には、そういう抑止力としての意味合いもあったに違いない。
「だって近藤さん、いつかコイツが男に戻ったらどうすんだ? いや、戻すためのクスリだって手配しているんだ。何も無理に女として迎えてやる義理も義務もねぇんだぜ?」
「戻ったら戻ったで、それはその時に、また考えればいいさ。くどいぞ、トシ。もう何も言ってくれるな」
「はあ……だがよ、志村妙はどうすんだ?」
土方が、最後の切札とばかりにその名を出した。沖田の顔が引き攣る。だが、近藤はけろりと「別れた」と言ってのけた。
「別れたも何も、付き合ってすらいなかったとは思うが……あんだけ熱心に追い回してたくせに、総悟のために諦めたわけか。まぁ、接待費と称したキャバ代が減って、会計方は喜ぶだろうがな。分かった、アンタがそこまで言うんなら、勝手にするがいいさ」
さすがに諦めたのか、土方は太い溜め息と共にそう吐き捨てた。
「最初から、勝手にするつもりさ」
「そーかいな」
だが、沖田が抱きつこうとしたのを、近藤が大きな掌で制した。
「だからよ、きちんと籍を入れて迎え入れるまでは、清いままでいようと考えているんだ」
「は?」
「つまり、おめぇは嫁入り前なんだ。しかも未成年。大切にしてやらねぇとな」
「マジですかい!?」
思わず沖田が喚いたのは、これで公然とイチャコラできるという期待が、大いに外れたからだろう。
「バカバカしいことに付き合わせやがって……じゃ、近藤さん。俺ァ、部屋に戻るぜ?」
「いや、俺も帰る。じゃあな、総悟。インスタントスープも買ってあるから、適当に湯入れて飲めよ。ポットぐれぇあるだろ?」
「へぇ、まぁ、ポット……ありやすけど」
「じゃあな」
茫然としている沖田を残して、近藤と土方が部屋を出る。
「そうだ、今のヤマが落ち着いたらでいいから、総悟に指輪でも買ってやろうかな。なぁ、トシ、見立ててくれよ。俺ァ、ああいうのを選ぶの、苦手でよ……それともアレかな、せくしぃとかの雑誌で、ちゃんと研究しとかねぇとダメかな」
「……アホか。いや、アンタがバカなのは、以前から分かってたがな。今回はつくづくバカだと思ったぜ」
土方はハーッと露骨にため息を吐いたが、近藤は全く意に介していないようだった。
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