Nicotiana【4】
「原田君、メシ食おうや。あ、山崎ちゃん……だよね? 山崎ちゃんも一緒なんだ?」
原田右之助のタコ入道は、混雑した食堂でもよく目立つ。丘は定食を乗せたトレイを手にして、向かいの席にどっかと腰を下ろした。山崎と呼びかけたときに一瞬の躊躇があったのは、なぜか別人のような錯覚がしたからだ。だが、良く見れば確かにそれは、監察方の筆頭、山崎退その人で。
この子、最近ちょっと太ったのかなと、丘は首をひねるが、面と向かってそれを質す前に、原田が顔をあげて「ああ、丘さん」と、声をかけてきた。
「俺ら、もう食い終わるんすけど」
「少しぐらいご相伴してよ。そういえばさぁ、副長がイイ子居ないかって」
「は?」
割り箸を割って、まずは味噌汁椀に突っ込んでグルグル掻き回しながら、何を言い出すかと思えば。山崎なんぞは危うくお茶を吹き出すところであった。
「……ナンデスカ、ソレハ」
「ん? 監察方で人手が足りないんだって、だから、若くて気が利く子が欲しいって」
伝聞情報とは恐ろしいもので、土方が言いたかったニュアンスからは若干かけ離れてるような感じがしなくもないが、それが逆に、真実を言い表わしているということもある。
「なにそれ。どうせ俺はトウが立ってて、気が利きませんよッ! なんだよ、若い子の方がいいのかよっ」
「土方のヤローは、新人隊士が入るたんびに物色するからなぁ。でもなんで、この時期に?」
「さぁ? 人手不足って言っても、山崎ちゃんも居るのにねぇ」
丘がおっとりと言って、焼き魚を突つき回す。
その仕種を眺めているうちに、山崎はなんとなく見当がついてきた。
自分と吉村という監察のベテラン勢が、今回の騒動で使えなくなっているのだから、ちょっと考えれば人手不足になることは明白だ。それも、情報を収集して分析するという仕事柄、頭数さえ揃えれば済むという問題でもない。それなのに「その身体でいる間は監察の仕事はしなくていい」と土方に言い渡されている。
そう言われたときは『仕事がないから、今は休んでいても良い』という意味だと受け取って、女になった自分の身体を労ってくれているのだとむしろ感謝していたのだが、どうやら『おまえは使えないから外す』ということだったらしい。残業だの不定期就労時間でメシを悔い損ねることの多い山崎だったが、珍しくまともなランチタイムに昼食が食べられることを、無邪気に喜んでいる場合ではなかった。
なにせ、真選組のことを常に一番に考えている、仕事人間の土方だ。
部下に対する評価は「使える」と「使えない」が基本で、ごく稀に「育成中」がある程度だ。
おまえは見ていて時々イラッとするけど、仕事はできるからな。
何度、そういう台詞を聞いたことだろう。なにかと「山崎」「山崎」と呼びつけられ、傍に置いて貰えるのも、結局は監察としての仕事が優秀だから、その他の身の回りのことも信頼して任せているということで。
マヨネーズや煙草の買い出しもしなくていいと言われたのだって「パシらされなくてラッキー」程度にしか考えていなかったが、そのポジションに、誰か若くて可愛い子が入り込むというを意味する。
……特に、あの人は「育成中」の子には甘いんだ、優しいンだ。
そこでコロッとほだされた挙げ句、一人前になった暁には、その惚れた弱味につけ込まれて、無理難題を吹っかけられるわけだが。土方の愛情を独占したい山崎としては、そんな事態は全力で避けなければいけない。
今まで、女の身体になったら基本的に優しく接してもらえていたから、今回もそれだけで充分だと考えていたのだが、過去のケースはあくまで「土方のせいで服用させてしまった」という負い目もあったからこそ、色々大目にみていたと言えなくもない。
今回は、山崎が勝手に薬を飲んだのだ。土方にしてみれば「だから、んなもン俺の知ったことか」というロジックなのかもしれない。なにこれ? 逆効果? あんなに苦しい思いをしてこの身体を手に入れたのに、逆効果なんですかぁ!?
落ち着け。落ち着いて、逆に考えるんだ、退。
イラッとしようが、女だろうが、ともかく「使える」と思って貰えれば、あの人の傍に置いて貰えるんだ。傍に居さえすれば、チャンスはいくらでもある。
なぜ女になった途端に問答無用で戦力外扱いされたのかと考えれば、やはり筋力が男の時よりも若干落ちているということが、理由のひとつだろう。ここはひとつ、こっそり鍛えて、監察の仕事も自主的にこなして、自分の能力をアピールしておいた方がいいかもしれない。それが、この身体でも堂々と土方の傍に置いて貰う口実になるのならば。
「原田さん、午後、ちいと剣の稽古、つけてくれません?」
山崎はそう言うと、ニコッと笑みを浮かべて、親友を見上げた。
さっき見た時から、違和感は感じていた。
元々小柄なヤツだったが、それ以上に小さくなったような気がする。それを感じたのが自分だけではない証拠に、丘もさっき妙な顔をしていた。だから、山崎の方から剣の稽古をつけてくれと言い出したのは、むしろ幸いであった。
衣類を入れる籠を乗せた棚が並んでいるだけの、安っぽい銭湯の脱衣場のような(違いといえば、こ汚い防具が隅に積んであったり、壁に竹刀を掛けた刀掛けが据え付けられている)薄暗い道場の更衣室で、隊服の上着を脱いで黒のタンクトップ姿になっている山崎の背中を横目で見るが、後ろからは特に、何も見当たらない。山崎はその上にさっさと胴着を羽織る。ベルトこそ抜いたようだが、スラックスを穿いたまま、袴の前板を当てたかと思うと見ている間にくるくると帯を巻いてしまった。
「原田さん、着替えないんですか?」
声をかけられて我に返り、慌てて原田も着替えた。ただでさえ暑いうえに動けば汗だくになるだろう。防具を全てつけるべきかと迷ったが、自分がこれから試したいことを思えば、つけない訳にはいかない。
原田が坊主頭に手拭いを巻いて面を被ると、案の定、山崎が面倒くさそうに「えーっ、面もするんスか? 臭いからヤダなぁ」とボヤいた。だが、ヤットウの腕は原田の方が上なのだから、原田が着けて山崎が着けない……という訳にはいかない。
支度を整え、竹刀を持って道場に入ると、既に何人もの隊士が竹刀や木刀を奮っていた。
「面までしてんの、俺らだけじゃないですか。取りません?」
「うっさいな。ほれ、やんぞ」
隅のほうに陣取り、向かい合わせに立つ。
山崎の剣先が微妙にフラついていた。山崎も一応は真選組隊士の端くれ、まさか剣の持ち方を知らないなどということはないはずだが、それでも微妙に指の位置が定まらず、握りにくそうに見える。
「……すみません、いきます」
「おう」
原田は最もオーソドックスな中段の構えで待ち受け、打ち込んで来た竹刀を軽くあしらって、すり上げては切り返した。何度かわざと胴や甲手に当てさせたが、思った通り太刀筋が軽い。この程度では、仕合でも一本とは見なされないだろう。
体格差のせいではない。山崎とほぼ同じ身の丈、体格の沖田とも何度も稽古をしているし、芋道場時代の、もっと幼かった頃の沖田の太刀さばきも知っているからこそ、原田はそう言い切れる。ならば、この違いは何なのか。
「おめぇ、稽古サボってミントンばっかしてっから、ナマってんじゃねぇか?」
「ミントンなめんなぁ!」
だが、次第に原田が二歩、三歩と踏み込むままに、山崎が押されて後ずさっていく。劣勢に焦れたのか、山崎が大きく竹刀を振りかぶった。守りがガラ空きになったその胴の真ん中に、誘い込まれるように原田が突きを入れていた。手応えが軽すぎて、原田がアッと思う間もなく、山崎の体がすっ飛ぶ。背中から床に落ち、どこを打ったのか激しく咳き込んだ。
「おいっ、すまねぇ、大丈夫か?」
「ち、油断し……がはっ、げへっ!」
やっぱりフル装備させておいて良かったと思いながら、原田が駆け寄る。
差し伸べた原田の手を断って、ようやく自力で立ち上がったものの、竹刀を杖代わりにすがっている山崎はすっかりバテたのか、ぜいぜいと肩で呼吸をしていた。
その姿を見て『やっぱり、いつものザキじゃない』という確信が持てた。そして、その理由もなんとなく見当がつく。
「ザキ、休むか?」
「ちくしょう、ここまで落ちてるなんて」
山崎は己の不甲斐なさに歯ぎしりした。真選組各隊の中でも特にハードだと言われているのが沖田率いる一番隊と原田率いる十番隊であり、その隊長相手に食い下がれたのだから、決して悪くはない出来だが、本来の技量と比べるとやはり劣る。
その様子を見ていた若い隊士が「原田さん、次、俺も一本お願いします!」などと声をかけたが、原田は「また今度な」とぶっきらぼうに返すや否や、山崎の襟首を引っ掴んだ。
「ちょっ、オイいいいいいいいっ!? やめっ、離せっ!」
喚こうが暴れようがお構いなしに、力任せに道場から引きずり出すと、更衣室に押し込む。
「ちょ、原田ッ、てめぇこらっ、何しやが……ッ!」
中に誰も居ないことを確かめると、原田は手早く面と甲手を脱ぐや、後ろ手に扉を締めて掛け金を掛ける。どうせ荒くれ者ばかりなのだから、こんなものはイザとなると扉ごと蹴破られるのがオチなのだが、何も無いよりはマシだろう。カチャリという微かな音が聞こえたのか、山崎の顔が引きつった。
「やっ……何考えてやがんだ、やめっ……!」
剣道の防具の紐は、基本的に蝶結びで結んである。逃げようとする山崎の手を掴んで引き寄せ、背中に腕を回すように抱き込むと、思ったよりもあっさりと面と胴を外すことができた。あと、防具には腰を巻く垂もあるのだが、それはそのままにして胴着の衿を掴む。
「やだっ、ちょっ、嫌だっての!」
「喚くな」
声を荒げたくはなかったので、なるべく声を低くして囁いたつもりなのだが、それでも山崎は怯えたように身体を硬直させてしまった。その反応に一瞬ためらったものの、そのまま一気に、衿を押し広げる。汗をかいて肌に貼り付いてるタンクトップは、ほのかに丸い胸と、その頂きに貼り付いている不審な絆創膏までを、くっきりと透かして浮かび上がらせていた。
「これ……まさかとは思うが、おめぇ……?」
剣を握りにくそうにしていたことといい、太刀筋や突いた手応えが妙に軽かったことといい、半ば確信していたことではあったが、やはり『証拠』を目の前にすると、さすがに怯んだ。その手が弛んだのに気付いた山崎がすばやく身を翻すと、壁際まで後じさって距離をとり、甲手を外さぬままの両手で、はだけさせられた胴着の衿をかきあわせた。人慣れしない野良猫の視線で見上げ、体を強ばらせている。
「それ以上近づいたら、俺、舌噛みますよ」
それが単なる脅しやハッタリではないのは、山崎が監察方だからだ。
万が一、敵に捕まって情報を吐かされそうになったら迷わず舌噛んで死ねと、彼らが日頃から教育されているのは、原田も知っている。無理をすれば本当に噛むだろう。原田は、素直に両手を上げて『降参』のポーズをとった。
「いや、その……ちょっと確かめたかっただけなんだ。怖い思いをさせて悪かった。だが、そんな体になった事情ぐれぇは、聞かせてもらってもいいんじゃねぇか?」
そのまま、いかにも気まずい沈黙が続く。道場で気合いを入れているらしい、悲鳴に似た掛け声が、ここまで流れてくる。山崎の指先に微かに力が篭ったのか、キュッという微かな衣擦れの音までが、原田の鼓膜に届いた。
「とりあえず……着替えてここを出ようぜ、見ないでおいてやるから。そんで、河岸を変えてゆっくり話を聞かせてくれや……ふたりきりになるのが怖いんだったら、どっかファミレスにでも行くか? 金なら俺が出す」
ともすれば上ずりそうになる声のトーンを落として、原田があやすように囁くと、涙目になりかけていた山崎がこっくりと頷いた。
冷静になると、何度思い返しても腹が立つ。
(ちくしょーっ! 男山崎一生の不覚っ! あ、男じゃねぇのか)
先ほど抱き込まれ、胴着を剥かれた時の自分の反応は、単純に素女丹の薬効のせいだと頭では理解できても、感情的には納得いかなかった。
原田が自分の様子が通常と違うことに気付いて心配したあまりに、単に体を検分しようとしただけなのだとは、あの時点でも分かっていたはずだ。だが、とっさに暴行されると思い込んでいたのだ……いや、無意識に期待していた、と言った方がいいのかもしれない。その大きな掌から逃れて、壁に背を押し付けてその冷たさを感じていた時、身体の奥がやけに熱かった。
何度めかの女体化。
その過去の経験の中で既に、この身体での肉の悦びを知っている。今回はまだ想い人の肌身に触れていないだけに、その渇望は心身共に相当のものだった。もし、あそこで下手に騒いで、原田がそれを抑えようとして……何かの弾みで劣情を催してしまっていたら、拒み切れなかったかもしれない。
(この身体は、毛筋一本、爪の先まで、土方さんだけのモンなのに)
「……そう思うんならよ、そんな危なっかしい状態でフラフラ、食堂だのなんだの、出てくんなよ。たまたま、気付いたのが俺だから良かったものの、よぉ」
原田はそうボヤきながら、もう何坏目になるか分からない、ドリンクバーのまずいホットコーヒーをすすっていた。念のためにと吸っている煙草はメンソールで、これも既に何本灰にしたことか(途中で、店員が灰皿を何回も取り替えたせいもあって)見当もつかない。
「見た目ではあまり分からない筈ッすよ。顔の造形は変わらないんだし、体型だって……胸だってぺったんこだし。お尻は……ちょっとスラックス、ぱっつんぱっつんだけど、履けないほどじゃないし。だから、隊服着てたら、あんま問題ないんです」
オッパイぼいーんなグラマラス沖田さんと違って……という言葉は呑み込んで、代わりにもう半分溶けてドロドロになっているミニパフェを、食欲なさげにスプーンで掻き回す。
「そうは言っても、おめぇ、今、身体からその……フェロモンが出てるんだろ。なんか妙なイタズラ心を起こす奴が出たら、どうするんだ。少なくとも、大部屋や食堂に顔出すのはよせ」
「そんな、なにも副長と同じことを言わなくても」
「言うわ、馬鹿。何かあったときに、自衛できんのか?」
なにせ、真選組の隊士はただのチンピラではない。各々が武芸に秀でた武装集団の一員なのだ。自衛といっても『痴漢撃退講座』なんかで教える程度の、お遊戯のような護身術が通じる由も無い。
柔術の嗜みでもあれば、多少腕力が無くても『従よく剛を制す』という成果があるだろうが、それだって、相手にもその心得があれば反撃されて『獣欲情をセックス』になりかねない。
「だって……このまま言われた通りに、仕事しないでダラダラしてると棄てられそうなんだもん。せっかく、副長に添い遂げたくてこの身体になったのに」
原田は、ハァ……と太いため息をついて、額に手をやった。
あのな、女になったところであの薄情もンが添い遂げてくれるとは、限らないんだぞ……という言葉が、すぐ唇の裏側まで出て来ている。
別に、男同士だから添い遂げられないなんて、あいつは最初から思っちゃいない。例え女が相手でも、それこそ惚れあったというミツバさん相手であっても……所帯を持とうだなんて、これっぽっちも考えてはいないんだぞ。なのに、死ぬかも知れないっていうリスクを冒してまで性転換するだなんて、無謀にも程がある。
『組のために、誰とも添い遂げるつもりなんか無い』と、上段に構えて言い切るのなら、土方は誰にも手出しなどすべきではないと、原田は思うのだが……そこは男にも女にも妙にモテる得な性分といおうか、罪な性分といおうか。土方のハーレム……じゃない、監察方の連中相手にはむしろ、その恋情を巧妙にくすぐって、便利に操っているというフシが、無くも無い。
山崎も見事なまでにそれに引っかかったクチで、副長のため、引いては組のためにと、傍で見ているこっちが気の毒になるぐらい、身体を張って公私にわたって尽くしている。いや、それだけじゃなく、土方の気まぐれな殴る蹴るの虐待だって、耐え忍んでいるのだ。手の甲にも(なんの折檻なのか知らないが)しょっちゅう、煙草で根性焼き入れられてやがるし。
「おめぇさぁ、毎回言ってるこったけど、今回も友人としてヒトコト言わせてもらうと……あいつぁホント、ロクでもねーヤツだと思うぞ、男の目から見ても。なんだって、そこまですんだよ」
「さぁ……毎回答えてることだけど、今回も友情溢れる助言ありがたいけど……俺、それでも土方さんが好きなんだよね。どうしてか、自分でも分からないけど」
原田と山崎の間で、何百回繰り返したか分からない、堂々回りの問答。
「それにさぁ……前に女の身体でお手がついた時に、もしデキちゃったら貰ってくれるって言ってくれたんだよね。俺としては、副長が嫁の方が美人だし、俺も男だし、そっちの方が良かったんだけどさ……娶って貰えるっていうんだったら、別にそっちでもいーやって思ったんだ。そうしたら、副長を独占できるって。俺だけ見てくれるって。ちゃんと面と向かって、好きだって言って貰えるって……そう思ったんだ」
そう独白のように呟いた山崎は、原田が唖然として見詰めている前で、その視線を知ってか知らずか、滑らかな傷一つない己の手の甲を撫でる。
「自分が副長のモノであるという印が、副長につけられた傷しかないなんて……いや、昔は、それでも充分だと思っていた筈なんだけどね。副長につけられた傷も、副長のための任務でつけた傷も。でも、自分だけじゃなくて、同じように傷をつけているヤツが居るかもしれないと思うと……もっと確かな絆が欲しくなってしまって」
「決してただのバカじゃないおめぇに、そこまで思い込むように洗脳したアイツの手管に、ホトホト感心するよ、まったく。そこまでして、もしアイツが落ちなかったら、どうすんだオメェ。つか、かなりの確率で落ちねぇだろうよ」
山崎の手が止まる。
重なっている己の手……男だった頃よりも細く、華奢なその指……をじっと眺めて、考え込む。
「そこまでは、まだ考えられないや。ま、最悪、吉村が解毒剤探しに出されてるみたいだし」
ああ、それで余計に監察方が人手不足なのかと、原田は妙に納得する。
山崎、吉村のベテラン勢が不在では、特に難しいと思われる今回の仕事、満足のいく調査ができる由もない。
「それとも、原田さんにでも拾ってもらおうかなぁ」
原田がブッとコーヒーを吹いた。山崎がキョトンとして、やがて我に返って、おしぼりと紙ナプキンを拾い上げて、テーブルの上を拭く。
「だ、大丈夫すか? スンマセン、冗談っすよ。隊服、シミつかなかったすか?」
「いや、いい。クリーニングにでも出す」
なんだ冗談かよ……という言葉は、辛うじて呑み込む。
それでも、少しでも山崎の望む方向に協力してやろうと考える辺り、原田も大概お人好しなのかもしれない。
「今んとこ、監察方の代わりにメインで調査に動いてるのは、七番隊と俺んとこの十番隊だ。良かったら、いつでも十番隊隊長室で資料見ていけや。俺の端末も自由に使っていい。あとな……こんな事を言うのもナンだけどよ、土方なんだがよ。傍で見てたら何となく分かるけど、あらぁ、猫だな」
「猫ォ?!」
いや、確かに土方さんはタチというよりネコが似合うというか、ネコな土方さんもなかなか捨て難いというか……でもあの人、どっちかというと両刀だよな……と、山崎が目を丸くしていると、原田も山崎が何を想像したのか見当がついたらしく、苦笑した。
「いや、そうじゃなくて。追えば逃げる、逃げれば追うの猫の恋……って、どうやらそういう性分みてぇだぜ。だからまぁ、押してダメなら引いてみな、てヤツ」
「そんな! ここで引いたら『ハイそうですか』って、それっきりじゃないですか。それに、引いてる間に、どんだけライバルが……それはもう、ハイエナかピラニアのように、あの人を狙ってるんですから!」
「んだよ、どんだけ? ま、ご参考までに、だ。俺んとこなんざ、転がり込んで来ねぇことを祈るよ。せいぜい頑張れ」
「ありがとう。頑張る」
山崎がニッコリと笑ってみせる。
それでとりあえず固い話は一段落し、後は取り留めのない雑談になった。
「なんですかイ、そいつァ」
沖田は呆れ顔で、昼食のトレイを手に再び部屋に訪れた近藤を見上げた。その髭面が、防毒マスクに完全に包まれている。
「これか。これぁアレだ。防具だよ。その、てめぇから出てるっつーフェなんとかってのから、身を守るんだ」
「フェなんとか? フェロモンのことですかイ」
「そうそう。それそれ……匂い、なんだろ? だったら、こうしておけば、その影響を受けねぇと考えた訳よ」
「はぁ」
サラシで胸を締め付けている上に、部屋に軟禁状態の沖田は、たかが数刻たったぐらいで腹が減りようもない。目の前に置かれたチャーハンを見ているだけで、胸焼けがしそうだ。せっかく持ってきてくれた近藤の好意に応えようとスプーンを手に取ったものの、口に運ぶことができずにひたすら、突きまわしている。
「いや、つまりよ。おめぇが命がけで向けてくれた懸想を、正気を失った状態で返すのも、失礼だろがよ」
沖田の態度を不満の表明だと受け取った近藤は、いささか弁解がましくそう言った。
「つまり、どういうことですかイ?」
「その、あくまでもソイツの影響を受けねぇ状態で考えて、結論出してぇんだよ。冷静に考えて、おめぇを貰ってやるのがベストだと思えば、俺はそうしてやりてぇし」
「あれ、もう決定事項じゃないんですかイ?」
「いやそのぉ、色々あんだよ。オトナには。松平のとっつぁんが持ってくる見合いの話を断ったりとか……お妙さんのことだって、その、あるわけだし」
沖田の頬がカッと紅潮した。照れたわけではない。お妙さんと聞いて、頭に血が昇ったのだ。
志村妙。近藤が一方的に懸想しているキャバ嬢。
露骨に嫌われているというのに、どうしていつまでもあんな女に近藤が拘るのか、沖田には理解できない。
「あのゴリラ女に何があるんですかイ。脈なんてある訳ねぇのに」
「いや、お妙さんはちょっぴり素直になれないだけなんだ。それでその密かな想いを踏みにじって傷つけるなんて、カワイそうじゃねぇか」
「あのゴリラ女ァ、脳天を戦車で踏みしだいても、死にそうにねぇよ。それとも何かイ、存在してるかどうかも分からねぇハナクソみてぇな想いってヤツはカワイそうで、ちっこい頃からアンタを慕ってきた俺の想いは、どうなってもいいってぇんですかイ」
喚きながら、スプーンも皿も力一杯、床に叩きつけた。近藤は狼狽しながらも沖田の薄い両肩を掴んでやると「落ち着け総悟……だってほら、お妙さんは、か弱い乙女じゃねぇか」と、説得を試みる。
「それだったら、俺だって今は女でさぁ!」
腕の中で暴れながら、己の着物の衿を押し広げた。現れたサラシに爪を立てて引き千切ると、ぽよんと胸乳がこぼれた。強引に押さえつけられていた痕が紅くなっており、痛々しい。
「ほら、ねぇ? だから、俺の気持ちも踏みにじらねぇでおくんなせぇよぉ」
子どもが駄々をこねるように肩を揺するたびに、見事な胸乳がたぷんたぷんと揺れる。それを目の当たりにして、近藤がマスク越しにでも分かるほどに赤面した。たとえフェロモンの影響を受けないとしても、これは視覚的刺激が強すぎる。
「だからっ……色仕掛けはよせっ。その、おめぇが望んでるのは、そーいうんじゃねぇだろうが」
「俺が望んでること?」
「つまり、その、添い遂げてぇんだろ? それはその、遊びじゃなくて、ちゃんとした形で。フェロモンだオッパイだ惑わされてカッとしてヤっちまうだなんて、そんな粗末な扱いされたくねぇだろ?」
「動悸は多少粗末でも、大切に抱いてくれりゃ問題ありやせんぜイ。多少乱暴でも、近藤さん相手だったら我慢できると思いやす。アンタにテクは期待してやせんやァ」
「だーからぁー……そうじゃなくてェ!」
思わず近藤の声が大きくなり、沖田が一瞬、身をすくめた。ただでさえ大きな瞳がいっぱいに見開かれている。
「あ……いや、悪い。そうじゃなくって、その……ともかく、そのオッパイをしまえ。トシはザキを貰ってやる気はサラサラねぇと言いやがるが、俺はおめぇらの覚悟は分かってやっているつもりだし、その気持ちにもなんらかの形で応えてぇとは思っている。誠意を持って対応してぇと思うからこそ、軽はずみなことはしたくねぇんだ。そのためのマスクなんだよ。聞き分けてくれろ?」
子どもをあやすように諄々と言い聞かせられて、沖田も徐々に冷静さを取り戻したようだ。
「へい、分かりやした……って、土方さんが山崎貰ってやる気ねぇって、マジで?」
頭が冷えたら、そんなことが気になった。
「ああ……アイツ、手ぇ出しておきながら、勝手なもんだよな。クスリの影響受けての出来心だし、ガキがデキた訳でもねぇから責任取る必要ねぇって、サラッと言いやがる。まぁ確かに、ヤッた相手全部、いちいち貰ってたら婚姻届が何枚あっても足りねぇだろうがよ。だからさ、俺は同じ轍踏みたくねぇんだよ」
近藤はそんなことをぼそぼそと呟きながら、沖田が溢したチャーハンを、反故紙をチリトリ代わりにかき集めて棄ててやる。
「山崎、あんなに楽しみにしてやがったのに」
昨夜はふたりで、女として人生再スタートを切る期待に胸を膨らませていたというのに(いや、山崎の胸は膨らんでいないが)、たった一晩でその夢が打ち砕かれるなんて、あんまりだ。
「近藤さんは、俺んこと捨てたりしねぇですよね?」
片付けを終えて、トレイの上に空になった皿を載せた近藤は、そう言ってすがるように見上げてくる沖田から、あえて目をそらしていた。
「捨ては……しねぇよ、約束する。ただ、ちいと考えさせてくれや。なんとかの考え休むに似たりとは言われるかもしれねぇが……せめて、ちゃんと手順を踏ませてくれ。見合いの話も、お妙さんのことも……きちんと片付けてから、迎えてやっから。それまでは軽はずみなことはさせねぇでくれ。な?」
沖田は、律儀過ぎる近藤の言葉に、嬉しいような、もどかしいような、複雑な気分になった。「だったらせめて、ちゅーでも」と言いかけて、マスクに邪魔をされていることに気付く。
「ともかく……俺ァ今から市中見回りに出るけど、オメェ腹減ったら、俺の携帯に連絡入れろや。なんか適当に買って、持って行ってやっから」
「へい」
近藤は、幼子に対してするように、大きな掌でわしわしと沖田の頭を撫でてやった。沖田はそれ以上、何も言えなくなり、広い背中が障子の向こうに消えていくのをぼんやりと見送るしかなかった。
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