愛鳥週間/下
部屋に戻り、畳の上に座らされる。土方が押し入れのふすまを開けて、床の支度を始めた。こんなシチュエーションが前にもあったような気がする。それこそが、先ほど感じた『妙な気分』の正体なのだろう。
「ほれ、あとは寝ておけ」
伊東がぼんやりしていると、舌打ちしながらも抱きかかえるようにして布団の上に転がしてやる。
「服、緩めた方がいいか?」
尋ねながらも、既に上着は剥ぎ取っており、ベストの前を寛げてブラウスのボタンも上から二つ三つ外している。服の締め付けがなくなった分、呼吸は楽になった気がするが、土方がさらにベルトのバックルに手を伸ばしてきたのには、ギョッとした。
「ん? 自分で脱げるか?」
「そこまでは、いい」
「何もしねぇから、安心しな。ベルトしたまま寝たら、苦しいだろうが。それとも自分でできるか?」
確かにベルトは外した方が良いだろうと、自分でバックルに手をかけるが、酔いのせいか、指先に力がこもらない。
「ほれ見ろ」
土方が再び手を伸ばしてきた。それを拒もうとする間もなく、ベルトが抜き取られる。土方は苦笑しながら、そのベルトを丸めると枕元に置いた。
「だから何もしねぇって、何度言わせるんだ」
その言葉も何か記憶に引っ掛かる気がして、伊東が首を傾げた。枕元にあぐらをかいた土方が、それを見下ろして苦笑いする。
「本当に、何も覚えてねぇんだな」
「どこかで変な薬を飲んだらしくて、心身に悪影響が出たらしいということは、篠原君から聞いた。一字一句、その言葉通りだよ。それ以上のことは全然」
「何ひとつ?」
「多分」
そのまま黙り込んでしまう。
土方もその続きは期待していないらしく、視線を中庭へやっている。何度か、手持ち無沙汰そうに上着の内ポケットの煙草の箱に触れては、取り出すこともなく手を離すことを繰り返した。
「もう何もねぇな? 俺ァそろそろ、戻るわな」
だが、伊東はそれには直接答えず「覚えていない代わりに、妙な夢を見たんだ」と呟いた。腰を上げようとしていた土方の動きが止まる。
「夢? どんなだ」
「どんなと言われても。夢だけに荒唐無稽でね。そんなことを思いだすなんて、僕も相当酔っているんだろうけど」
「ああ、そいつぁ相当、酔ってるんだろうな。ついでだから、全部話してみろや。酔っ払いのタワゴトと思って忘れてやる」
「本当に、荒唐無稽な、ただの夢なんだ。そんな願望があるとか、そういう訳じゃない」
しつこく念を押しながら、伊東が「僕が女になった、という夢だよ」と切り出した。
それは実際に、お前がどっかでクスリを飲んで来たんだろうが……と、ツッコもうとしたところで「本当に、長い長い夢だったよ。子供までいて」という言葉が重なる。
「こ、子供、だぁ?」
「可愛かったよ。父親似の女の子でね。皆に愛されてて」
土方は、自分が話せと言った手前、黙ってその妄言を聞いているが、妙に居心地が悪そうだった。
「自己分析をするなら、あの娘は僕の願望の反映だったのかも知れない。誰からも愛されて、周囲の皆に可愛がられる子ども……そう在りたいと願っていた姿そのもので」
「ああ、オメェ、親御さんとうまくいってなかったんだろ」
「どうして、それを? 篠原君から聞いたのかな?」
「どうしてっていうか」
以前、伊東が女になった時の、情緒不安定なまでの甘え方に、なんとなくそんな気がしただけだ。だが、それを説明するのは憚られた。
代わりに「父親は誰だった?」と話を逸らした。伊東が頬を染めて、ぷいと横を向く。それはそうだろう。誰に抱かれた、と聞くようなものだ。それを答えるのは、プライドの高い伊東には堪え難い屈辱に違いない。
俺だろ、とまぜっ返さないだけの配慮は、土方にもあった。
「好いてたのか」
「そりゃあもう、比翼連理の仲でね」
「ひよ……?」
「比翼連理」
「ヒヨコ原理?」
「ひ・よ・く・れ・ん・り。対になった羽、連なった枝、という意味なんだが、こんなことをいちいち説明させないでくれるか? まったく、これだから学のないヤツとは話しにくい」
「分かった分かった、悪かった。で? つまりはソイツと仲睦まじく、末永く幸せに暮らしたんだな」
土方の手が髪に触れた。伊東がかぶりを振る。触れられるのを拒んだのかと思って、土方は一瞬手を離そうとしたが、そうではないらしい。むしろ、おずおずと手を伸ばしてきて、子供がすがるように指を掴んで来た。
「自分が殺される夢は、確か吉夢だったよね」
「え? ああ、そういうことか」
「そして意識を失ったと思ったら、逆に目が覚めて。そうしたら、こんな状態で、薬のせいだとかなんとか」
ああ、それでか、と土方は妙に納得する。
性を転換させるあの不思議な仙丹は、全身の細胞を一度溶かして、作り替える。脳細胞まで再構築されたのだから、身体がそれを「死」と解釈してもおかしくはない。一度目の回復直後は割としっかりしていたが、二度目のは相当ダメージが強かったのだろう。
「お前を殺したのは、俺か?」
半ば戯れ言の質問であった。そうだとしたら、ハッピーエンドの人生じゃねぇか、と。
伊東の表情が強ばった。それに答える代わりに、絡めている指に、きゅうっと微かに力がこもった。
「………」
土方の唇が微かに動いた。ほとんど聞き取れぬほど微かに囁いたその名に、伊東の目が見開かれる。だが、それに答えようとした刹那、込み上げる感覚に伊東は己の口を覆った。
「どうした? 吐きそうなのか?」
答えを待つまでもなくそれと察して、土方は伊東の身体を抱きかかえて足で唐紙障子を蹴り開けた。襟首を引っ掴んで、伊東の上体を中庭の地べたへ乗り出すようにさせる。
「我慢するな。吐いちまえ。楽になる」
促すまでもなく、不快な音と匂いを伴って、吐瀉物が地面に叩き付けられる。よほど苦しいのか身体に力が入っておらず、支えていないとくたくたと崩れそうになる。
「おい、水貰ってきてやるか?」
顔を覗き込もうと、顎を掴んで上を向かせようとしたその時に。
「副長っ! ご無事でっ!」
「参謀っ! 大丈夫ですか!?」
喚く声が重なった。振り向けば、山崎と篠原だった。タレ目と黒目が揃って吊り上がっている。
「なんだオマエラ、一緒に居たのか。仲良いな」
「なに間抜けなことを言ってるんですか! コイツなんかと仲良いわけないでしょっ!? 副長が参謀連れて行ったって、沖田隊長が言ってたから、俺、心配で心配でっ!」
「心配ってゆーかな。コイツ、こんな調子だし」
「ちょっ、参謀になんという乱暴な扱いしてるんですかっ! しかもそんな格好っ!」
篠原が慌てて土方の手から伊東を奪い返し、その背を撫でる。土方は自分なりには丁寧に扱っていたつもりなので、篠原が何故興奮しているのか理解できなかったが、ともあれ篠原が来たからには任せようと、手を離すとのっそりと立ち上がった。
「先生、しっかりしてください、先生!」
その悲鳴にも似た声を背中に、参謀室を後にする。
山崎が「ご無事で何よりです」とまつわりついてくるのを、うっとおしげに払って「総悟から聞いたってこたぁ、アイツ、起きてたのか。広間に居たのか?」と尋ねた。
「いや、皆、部屋に戻っていて……広間で寝ていたのは、局長ぐらいでしたね」
「しゃあねぇなぁ、あのヒトはまったく。ザキ、部屋に連れて行っておけ」
「え、無理ですよぉ。あの図体引きずって行けと?」
「引きずるんだったらできるだろーが。ち、仕方ねぇなぁ」
土方が広間に向かうと、山崎が「局長なんて放っておきましょうよ。せっかく副長のご無事を確認したんだから、ついでに、あーんなことやこーんなこともさせて頂こうかと思ってたのに」などとタワゴトを言いながら、まつわりついてくる。
「おおよそ要らねぇ」
抱きついてきた山崎の顔面に、裏拳を一発ぶちかました。
半ば朦朧としていた伊東であったが、額に冷たい手拭いを当てられ、徐々に意識がはっきりしていくのを感じた。
自分は広間で酒を飲まされて、気分が悪くなって、横になって……それからどうしたんだっけか? 畳が頬に当たって、妙に冷たくて心地よかったことだけ、覚えている。それから? 誰がこの部屋に連れて来てくれたんだろう?
「先生、気がつかれました?」
「ああ、篠原君か。君が僕をここに?」
「いいえ、違いますが危ないところでした。先生が酔っているのをいいことに、土方が半裸に剥いて引きずり回していたところを、保護いたしました」
「なに、土方がそんなことを?」
そんな酷い仕打ちを受けていたのだろうかと、首を傾げる。まったく記憶が無い。むしろ心地よい夢を見ていたような気がするうえに、いくら犬猿の仲とはいえこの自分がライバルと定めた男、そんな卑怯な振る舞いをするとは思えないのだが。
「うがい、なさいます?」
「え?」
「縁側で戻していらっしゃいましたので、お口を清めた方が宜しいかと。庭は、とりあえず砂をまいておきました。あとで土を入れ替えます」
その言葉には偽りがないらしく、確かに口腔に生臭い匂いが残っているのが感じられる。だとしたら、土方が自分を引き回していたというのも事実なのだろうか? 枕元には、ベルトが丁寧にまとめて置かれていた。
「あれは、篠原君が?」
「え?」
「あのベルト」
言われて初めて気付いたように、篠原が怪訝な顔をする。
獲物を裸に剥いて引き回そうかという人間が、ベルトをわざわざああいうふうに置くだろうか。篠原も聡い男らしく、すぐにその質問の意図を察したようだが「あの人は、何を考えているか、分からない男ですから」という言葉で片付けてしまった。
伊東派の連中が既に、今回の件で言いたい放題言っているのは、土方の耳にも入った。いや、聞く気が無くても、勝手に山崎や吉村が「ご注進」してくるのだ。
それを右から左に聞き流して、土方は半ば埃をかぶっていた漢籍をめくっていた。伊東が呟いていた句が何だったのか、聞いた覚えがあるような気がして調べていたのだ。結局、学のない土方は、寺子屋時代の教科書まで遡るはめになったのだが。
天に在りては 願はくは比翼の鳥と作り
地に在りては 願はくは連理の枝と為らんと
天長地久 時有りて尽くるも
此の恨みは 綿綿として絶ゆる期無からん
「なに読んでるんですか? 教科書? 『長恨歌』?」
山崎が覗き込んできた。表紙を見てタイトルに首を傾げ、再び開いてあるページに戻る。
それは、長い長い恋物語を綴った詩の、まさにラストの部分であった。唐国の史実に基づいているというが、後半は仙境を舞台にした夢物語である。
「なんですか、これ。すごい詩ですねぇ。天地が尽きても、この恨みは尽きないって意味ですよね。怨念そのものじゃないですか。沖田隊長みたいですね」
「ばぁか。この『恨み』ってぇのは、恋愛の情の意味だ」
実は土方も最初はそう思ったのだが、別のページに、幼少の十四郎坊ちゃまの拙い字で、解説が書き込まれていた。ハイ、ここテストに出ます、大切だから二回言いますよ、という台詞まで書き添えてあったのだが、テスト後はまるっと忘れてしまったのだろう。
実際、刀を振り回して生きるその後の人生に、漢籍の教養はあまり役に立たなかったわけだし。
「へぇ? ますます沖田隊長っぽいですね。あの人、憎さあまって可愛さ百倍っていうか、その逆っていうか。あ、でも俺は副長に対しては愛だけで、恨みなんてありませんけどね?」
ここぞとばかりに求愛アピールしてくるのを「ハイハイ」と苦笑して受け流し「いいから、茶でも入れて来い」と言い付ける。
「俺もお茶、ご相伴していいですか?」
「勝手にしろ」
「はぁい。勝手にしていいんなら、お揃いのマグカップ用意しますね」
うきうきとした足取りで山崎が出て行くのを見送って、土方はそのカビ臭い書物を閉じた。懐を探って、煙草の箱を取り出す。
『連理』というのは、別々の樹の枝が癒着したもので自然界でもよく見かける現象であるが、『比翼』というのは、二羽で一対の翼を持つという架空の鳥だ。伊東がどんな心算でこの語を選んだのか、それとも単なる慣用句として用いたのか、そこまでは分からない。ただ、土方に分かっていることは、ひとつだけ。
「アイツは俺が殺すと、そう決めているんだ」
誰に語るでもなく、呟く。怨恨か恋情かなんて、もともと判別し難いものではあるが。
くしゃり、と土方の掌中で、煙草の箱が握りつぶされた。
了
【後書き】週刊少年ジャンプに掲載されていた下イラストに萌えて、思わず携帯電話でぽちぽちと書いてしまったのが、前半部(裏ブログで『天覧試合』として収録)……で、先日、なにげなくカレンダーを見たら5月に愛鳥週間があるとのことなので、つい、それに絡めて続きを書いてみました。ええ、鴨だけに。
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