あのソフトキャンディはママの味っていうけど別に人肉が入ってるわけじゃない。そういえばジンギスカンキャラメルにもラム肉は入っていない【4】
「そんなわけで、俺らが色々と名前とか設定とか基本情報とか決めてやんねぇといけねぇんだ。とりあえずコイツ、何歳くらいに見える?」
色々決めるってアータ、ファミコンのゲームキャラじゃないんだからと呆れながらも、山崎らはしげしげ勲平を眺めた。ゲームと違って安易にリセットできない生身の人生、初期設定を誤ると、後々困ったことになるのだから真剣だ。幸い、比較対象できる存在がいる。
「そうですね。ひなより一つ二つ上って感じですかね」
「ひな、みっちゅー」
「んじゃ。勲平、お前、四歳な」
「いいのかね? 近藤君。大事なことをそう簡単に決めてしまって」
大人のやりとりが気になっている様子の勲平だったが、土方の膝にちょこなんと腰掛けている陽向の視線に気付くと、絡め取られたように目が離せなくなった。
「くんぺーは、ひなよりおっきいんでしゅね。おにーちゃんでしゅか」
「おにーちゃん?」
またもや新しく登場した人間関係を表す単語に、勲平は混乱したらしい。泣き出しそうな勲平の頭に、近藤の掌がかぶさると「そういうことになるみてぇだ、宜しくな。勲平、この子はひなたちゃんだ。どうした? カワイイ女の子を前にして緊張してるのか?」と、仲介してやった。
「いとうひなたでしゅ。くんぺーは、きょうからひなのてしたにしてあげましゅ!」
嬉々として下された幼女の宣言に、近藤はガクッとコケた。
「さすが土方君の娘だねぇ。この年齢から女王様体質だよ」
「オマエが言うな。つーかオマエ、そもそも産みの母だろが」
「俺に言わせたら、アンタら二人ともそういう性格です」
「てゆーか、手下って! ちょっとトシぃぃ、ねぇひなちゃん、せめてお友達から始めてあげてぇぇ」
この年齢にして、しかも『初期設定』段階でいきなりの『手下』確定に、近藤は他人事に思えず陽向に懇願するが、陽向はケロリと「てしたでしゅ」と繰り返す。
「ちょうどいいや。勲平、この瞳孔開いたのんが、近藤さんの手下の、土方コノヤロー」
「手下じゃねぇ、ボケ。つか、そのままガキが覚えんだろーがっ!」
「んじゃ、何て教えればいいんですかイ」
ケロリと言い切る沖田に、土方は刀の鞘を払う寸前だ。山崎がそれをなだめながら「子供だから役職は理解できないでしょうし『土方のおじちゃん』でしょうかね」と、提案する。
「ひじかたのおじちゃん?」
「まぁ、おにーさんって年齢でもねぇし、妥当だな。手下ってか、お前の父ちゃんがここで一番偉い。その次が俺、って覚えとけ」
「かーちゃんはえらいの?」
偉い偉い、なにせ本当なら俺が副長職を……と言いかけた沖田は、ハナシをややこしくするなと近藤に小突かれた。土方もじろりと沖田に視線を流し「俺の次に偉いのが、ひよ。陽向の母親だ」と言う。
「ひなちゃんのおかーさん?」
「うん。ひなのおかーしゃんは、そーこねーちゃとママよりえらいの」
「そうだね。下手に名前を教えるよりも、僕は『ひなちゃんのお母さん』で覚えてもらった方がよさそうだね。同じ理屈でいくと、山崎君は『ひなちゃんのママ』になるのかな」
「ひなちゃんのママ? ひなちゃんも、おかーさんとべつのおかーさんがいるの?」
勲平の当然の疑問に、大人達はハッとして顔を見合わせた。
「どう説明したらいいと思いやす? ひとことで言うなら、産みの母に育ての母、だろうけど」
「いや、でも子供にそのまま言うのは、まずいだろ」
「そのうち分かるんだから、いいんじゃねぇのか?」
「だから、ややこしくなる前に、さっさと籍を入れて、僕を正妻にしておけば良かったのに」
「どさくさに紛れて何いってんですか、デコ! 土方さんの嫁は俺なのっ!」
ごちゃごちゃ言っている大人たちを無視して、陽向は立ち上がって、きっぱりと言い放つ。
「ひなには、おかーしゃんとママがいるの。どっちも、ひなのでしゅからね!」
「う、うん」
その勢いに押されて、勲平はこくこくと頷いた。
「ザキぃ。オメェ、いい教育したな。ひなちゃんにそう言ってもらえてよ」
近藤はその姿に、いたく感激したようだ。
この子もいつか自分のことを、こんなふうに自分の親だと胸を張って宣言してくれるだろうか? だが、当の親は、我が娘の姿にあらためて感動することもなく「こいつの場合は単に、ちっこい頃からそうやって教え込んでたからだろ」と、呆れた口調で呟いた。
「そのボウズだって、今はアタマん中が真っ白だろうから、好き勝手教え込めるだろうさ。でもよ、ふとした弾みに忘れてたモンを思い出しちまう可能性だってあるんだぜ? 構わねぇのか?」
土方の懸念はむしろ、そちらに向かったようだ。一見おとなしそうに見えるが、それは自らの過去が分からなくなっているからであって、本来は違う性格の子であったのかもしれない。そして記憶を欠落させてしまうほどの衝撃を受けた事件についても、思い出してしまったら、相当の後遺症として現れてくるに違いない。
だが、近藤は深く考え込むこともなく、あっけらかんと「構わねぇさ。そん時はそん時で、きっちり最後まで面倒みてやるだけさ。なんかあったら色々助けてもらうとは思うけどよ」と答えた。その反応に、土方もこの人に難しいことを尋ねても無駄と諦めて「そうだな。助けてもらうのは、お互い様だしな」と苦笑して話をそらした。
「こっちだって、チビスケが年中ちょろちょろ、お邪魔してんだからな。ボウズも、早いとこ環境になれるこったな。イマイチ不安な父ちゃんと、かなり不安な母ちゃんだけどよ」
「う、うん」
土方の言葉に勲平が頷いて、話は大体まとまったような雰囲気になる。
じゃあ今夜はここで、と近藤が腰を上げた。勲平が座布団を抱え、どこに返したものかとオロオロしていたが、伊東が「後で山崎君が片付けるから、座布団はほったらかしておいていいよ」と、優しく囁く。
「なんで俺限定」とツッコもうとした山崎に、近藤が「とりあえず明日の朝飯は、総悟の部屋に支度してくれや」と、声をかけた。
「え? 俺が、近藤家の朝飯の支度するんスか?」
「おう。支度できたら起こしてくれや」
「なにそれ? 局長はともかく、ちょっとは働きましょうよ、新米おかーさん。しかも起こしてくれって、アンタら、朝飯できるまでグースカ寝てるつもりですか?」
「だって俺、料理できねぇし。そうだ、ザキ、ついでにガキの書類も取りにきなせぇ」
未来予想図が、早くも現実化しつつあるらしい。山崎は偏頭痛を覚えながら、それでもおとなしく近藤一家の後について、廊下に出た。
騒がしかった近藤らが出て行くと、部屋は妙にガランとしたような気がした。
伊東は、ほったらかされたままの座布団を拾うこともなく、ぼんやりと座ったまま「結局、何の説明にもなってなかったけど、それで良かったのかもね。本人の目の前で色々説明するのも可哀想だし」と呟いた。
その言葉に何やら思い当たった土方は、膝の上の陽向を反転させ、自分の方を向かせた。
「陽向、いいか? あのボウズは今日から近藤さんところの子供なんだ。おまえもよそのおうちと違って、お母さんがふたり居るだろ? 同じ事だ。喧嘩しても、それを悪く言っちゃいけない。難しいけど、お父さんの言ってること、分かるか?」
「あい」
「約束できるか?」
「あい」
父親の言葉の意味を本当に理解しているのか、いないのか、相手が幼いだけにそこは計り知れないが、ともかく陽向は素直に返事をした。
「オメェはほっとくと、余計な言葉ばっかり覚えてきやがるからな。ひよ、オメェも迂闊な言葉、チビスケの前で言うんじゃねぇぞ」
「それは、僕より他の人間に言ってくれないと。ひなが変な言葉を覚えるのだって、僕が教えたんじゃなくって、どこかから聞いて勝手に覚えているんだよ」
両親のやり取りにきょとんとしている陽向の頭を、土方は苦笑混じりにわしゃわしゃと撫でる。
「ま、親が臭いものに蓋してやったところで、気づきゃどっかで覚えてきちまうのが、ガキってもんだけどな。近藤さんは子供好きだし、総悟がちっこい頃から面倒みてたからともかく、あの総悟に母親が務まるか、俺ぁ不安だよ」
「僕だって、母親らしいことはあまりできなかったけど、みんなに育ててもらったようなものだから、同じようにしてあげればいいんじゃないのかな。僕も、いつか仕事の引継ぎが終わったら、家庭に入ってちゃんとしたお母さんになりたいな、とは思うけど。君が受け入れてくれたら、のハナシだけどね」
その言葉のニュアンスが理解できなかったのか、陽向が「おかーしゃんは、おかーしゃんでしゅよ?」と、不思議そうに尋ねた。
「そうだね、お母さんだよね。でも、お母さんの仕事が全部できてるわけじゃないから」
「おかーしゃん、まいにちおしごとしてるよ? だから、ひなのおちごとはおかーしゃんにただいまってぎゅうしてあげゆことなの」
その『仕事』の意味や役割について、どう説明したものか、そもそも説明すべきことなのかと、伊東は途方に暮れた。いや、ひとに説明できるほど、自分でも納得していることかどうかも、正直、分からない。
「それじゃ、僕もがんばってお仕事してきて、ひなのことぎゅうってしてあげないとだね」
自分に言い聞かせるようにそう囁いたが、陽向はさほど深い意味で尋ねたことでもなかったらしく、大口を開けて欠伸をした。土方が「こら、女の子なんだから、口は隠せ」と、片手を陽向の口元にやり、ぽんぽんと叩いた。その欠伸の声が途切れて「ばあああああああうあああえあああ」という奇声になった。
その仕草を見て、そういえば、山崎君がこういうことをよくやっていたっけと、伊東は思い出した。
「土方君。そういえば、さっきの話、後遺症がどうのって、僕のこと?」
うとうとしている娘を起こさないように声をひそめながら、土方の背中に張り付くようにして囁いた。
「あ? ああ、ほら、オメェもその身体になる前のことは、あんまり覚えてないだろ。俺と仲悪かったこととか、まるっと。だから、あのボウズも似たようなことがあるかもしれねぇな、って」
「そうだね。今でも時々、なぜか記憶がすっぽ抜けることがあるよ。子供の頃の思い出だけは、ところどころ残ってるけど」
「そうけぇ。最近は、怖い夢をみたりとか、ねぇのか?」
こっくりと頷いたのは、背中越しの気配で伝わった。
山崎が調書を預かって戻って来た頃には、陽向はすっかり土方の膝の上で眠ってしまっていた。まずは手の空いている伊東が受け取り、その間に山崎が(イチャついてるヒマがあったら片付けてよねと、不平たらたら座布団をしまってから)子供用の布団を敷いて寝かせつける。
その後、ざっとその調書に目を通した伊東が、声をひそめながら手短かにその内容を要約して話してやった。
「さっきの近藤さんにしたハナシじゃないが、本当にトラウマとか大丈夫なのか、それ」
「全く無いとは考え難いけど、そういった症状については書いてなかったよ」
「さっき沖田さんに聞いたところ、絵を描かせたらそれっぽい徴候が出ていたそうなんで、少し時間をかけて様子を見てみます。同世代の子供と遊ばせることで、確実に状況も変わるでしょうし。あとは一日も早くここの環境に慣れて、あの二人も親としての自覚が出来てくれるといいんですけどね」
「近藤さんにガキ任せることには心配ねぇけど、総悟がなぁ」
「何とかなることを祈るしかないね。この書類、僕が預かっておいて、後で近藤君に返しておけばいいのかな?」
そんなやり取りをした後、それぞれの部屋に帰って、眠りについたのだった。
数刻して、伊東は目を覚ました。
盛大に蒲団を蹴り飛ばして畳の上まで転がっている娘に蒲団をかけ直すと、枕元の時計に視線をやる。寅の刻を少しまわった頃。厠に行って寝直そうと、廊下に出た。昼間とは打って変わって静まり返った屯所の中。夜勤の隊士が詰めているとはいえ、他の隊士が起き出してくる時間にはまだ早い。
用を足し、元来た廊下をぺたぺたと歩きだして、ふとその先に小さなわだかまりがあることに気づいた。何かあんなところに置いてあっただろうか。よく目を凝らすと、それは僅かに動いている。
「ひな?」
一瞬、娘が起き出してきたのかと思ったが、陽向は、昼間の勇ましさが嘘のように夜闇を怖がるため、こんな時間にひとりで出歩くことは、まず無い。
「勲平くん?」
確かめるようにそう呼びかけてみると、その塊がピクリと動いた。
「どうしたんだね? 迷子になって、お部屋に戻れなくなったのかい?」
伊東の声に顔を上げた勲平の目には、いっぱいに涙が溜っている。
「ちがうの」
「ちがう? こんなところでどうして。寒いから風邪を引いてしまうよ」
「分かんない。でもお部屋で泣いたら、とーちゃんとかーちゃん起きちゃうから」
膝を抱えた勲平は、時折ひっく、ひっくと肩を震わせているものの、全く声を上げない。
そうか、これがあの惨劇の後遺症なのか。
不意に伊東の中でそう思い至る。あの調書に記述がないのは、大人の目に触れないところでこうして声もなく泣いていたからなのかもしれない。
「ふたりとも君の両親なんだから、遠慮しないでいいんだよ? ひとりで戻れないのなら、連れて行ってあげるから」
伊藤の言葉に、尚も勲平は頭を左右に振る。
こういう時はどうしたらいいのだろうか? 昼間なら山崎にどうにかしてもらうところだが、今はそうもいかない。
「僕はおかーさんなんだから。どうしたらいいか考えるんだ」
少なくとも、自分はただひとり腹を痛めて我が子を産み落としたのに、どう対応していいか分からずにいることが多すぎるんだ。思い出せ、思い出すんだ。自分がどうして欲しかったのか。
おぼろげな記憶を遡ろうとすると、あちこちに開いた穴が邪魔をする。ようやく浮かび上がったのは、自分以外誰もいない寒々とした部屋の中にうずくまっていたこと、そして。
『ひながおかーしゃんをぎゅうってしてあげゆの』
不意に陽向の言葉が思い浮かんだ。
「怖いなら、だっこしてあげようか?」
自分の娘以外にそんなことをしたことは無いけれど、それでも泣いている子供をなだめる方法が、他に思いつかない。
「ひなちゃん、のおかーさん?」
「怖いときは、お母さんにこうしてもらいたいんだよね?」
「おか……あ…さ、ん?」
しばらくその語の意味を忘れていた様子であった幼子だが、自らその語を口にして、表情がみるみる弛んだ。男勝りで快活な『新しいかーちゃん』ではなく、本当の母親の記憶に触れたのかもしれない。
崩れるように、伊東に抱きついてくる。もしかして自分は悪い記憶を掘り起こしてしまったのだろうかと軽い後ろめたさを覚えながらも、抱き返してやった。それしかできなかったし、そうすることが一番良いと思えたからだ。
「うん。いいよ、おかあさんって呼んでも」
悪夢を見た後、自分が落ち着くまで抱きしめて癒してくれたのは、実母ではなかった。それでも暖かい手に撫でられるだけで、心がほぐれていった。それを思い出し、胸元でしゃくりあげる子供の背を撫でてやる。
泣きじゃくる子供の涙や鼻水で胸元が汚れたが、それに対する嫌悪は湧いてこなかった。自分は本来、そういうことに対して潔癖な性質だったらしいが。
「おか……ひっく……おかあ、さ……ひっく……おかあさ……ん」
「これからは、お母さんは沖田君なんだけど……今だけはそう呼んでいいからね。いや、今日みたいな夜だけは、内緒でそうしてもいいよ」
「おかあ……さん」
そう呟いたのは、おぼろげな記憶の中の自分か、それとも目の前の子供か。
小さな身体を抱き締め、その質量と熱を感じながら、伊東は不意に(男の子も悪くないな)などとぼんやりと考えていた。それが自分の意志なのか、それとも別のところから湧いてきたものかは分からない。跡取りを産んだら、さすがの土方も現在のような宙ぶらりんの状態にはしておけなかろう、という思惑もあったろうが、そんな理路整然としたものではなく、むしろ衝動的な感情に近い。もちろん、娘が要らないという訳ではない。ただ、女の子とは違う体格と質感に刺激されて、何かが意識の底から吹き出した、という感じだ。
「おかあさん、ごめんなさい。よごしちゃった」
やがて泣き止んだ勲平が、自らの涙や鼻水で着物を汚してしまっていたことに気づき、おどおどと謝罪する。
「いいよ。洗ったらキレイになるから」
こんなに幼いのに、もう大人の顔色を伺うのか。しかし、自分も昔は同じように母親に気を使っていた。
いや、伊東の母は兄を溺愛するあまり弟の鴨太郎には辛くあたっていた。同じような場面では「服を汚された」と、我が子を罵っていたかもしれない。兄の自分や姪への偏愛ぶりは、その母の歪んだ愛憎が大いに影響していると言えなくもない。
そう考えればこそ余計に、伊東は勲平を叱る気にはなれなかった。
「それよりも、怖いのは、収まったかな?」
「うん。わかんないけどこわかったの。こえだしちゃいけないって。でも、だいじょうぶ。ごめんなさい」
「うん、いいんだよ。もう声を出しても、怖いことはないんだよ」
「うん。だいじようぶ」
ぐしぐしっと自分の着物の袖で顔をこすり、勲平はぎこちなく笑う。
「なら良かった。僕もやっと、お母さんらしいことが出来たかな」
そう独り言して、そっと両腕を離す。
ふと、衝動的に「新しいお父さんとお母さんに内緒で、もう一回『お母さん』って呼んで?」と囁いていた。
「これから君は、沖田君のことを『おかあさん』って呼ばなくちゃいけないんだけど……もう一回だけ、僕のことをそう呼んで」
「おかあさん?」
不思議そうな口調で勲平は繰り返し、伊東の顔を見上げる。
そう頼みたくなった理由は、自分でも分からない。母親らしいことができたということへの満足感を噛みしめたかっただけかもしれないし、男の子が欲しいという衝動の続きかもしれない。
いや、自分自身の幼い頃の、母への思慕の裏返しだったのだろうか。
「うん、ありがとう。そう呼んでくれて、ありがとう。無理を言ってごめんね?」
何故礼を言われたのか理解できないまでも、こくりと頷いて勲平は立ちあがる。
「とーちゃんとかーちゃんと、おかーさんなの?」
「ううん。もう、おかーさんって呼んじゃダメだよ。これからの君のお父さんとお母さんは、近藤君と沖田君だから。新しいことがいっぱいで混乱するだろうけど、間違えないようにね」
伊東はそういうと、自分も腰を上げた。
母親が何人もいれば、大抵の子供は混乱する。ふたりの母親を平然と受け入れている陽向は、いわばレアケースなのだから。
「うん、ひなちゃんのおかーさん、だよね?」
最初に教わった呼び方を思い出しそう呼ぶと、伊東は小さく頷いた。
土方君に次は男の子が欲しいって強請ってみようかな。この子はひなの兄のような年齢だから、今度は弟ができるのも悪くない……伊東はその儚気な指の感触を感じながら、そんなことを考えていた。
だが、伊東がそういって土方を困らせるのは、また別の物語。
翌朝、朝食も食べ終わり、そろそろ始業という時間に、食堂に隊士が集められた。仕事上の連絡なら副長室か道場に集められるところだが、あくまで私事だという建て前を通したのだろう。
噂ではとうに知っているが、実際に幼子を眼前にした隊士は色めき立ち、ひよわそうだの、賢そうだの、将来は毛が薄そうだのと口々に勝手な感想を囁きあう。近藤が手を打って、それを静めさせた。
「つーわけで、こいつぁ、今日から俺らの子供だ。可愛がってやってくれ」
「あの子、男の子でしたか。真選組で引き取ることになったみたいですね。女の子だったら、私が貰ってあげたのですが、残念です。非常に残念です」
武市変平太がサラリと言う。高杉は「そうかい」とも言わず、三味線を抱えて窓に腰掛けながら、川面をぼんやりと眺めている。
「武市ヘンタイに引き取らせるなんて、そんな飢えた猛獣に餌をやるようなモンっス! それだったら真選組の方がマシ……って、そういう問題じゃなくて! やっぱりアイツら見逃してたんスか! 虫一匹残さず殺せというのが、晋助様のご命令だった筈! あの子ってことは、武市センパイも知ってたんスね?」
来島また子がヒステリックに喚くが、高杉の顔色は変わらない。
岡田似蔵や河上万斎が独断で勝手なことをやらかすのは今に始まったことではないし、自分がその場にいても、同じことをしたかもしれない。
『生きて動いてるものは、全部殺して来いという命令でねぇ。でも困ったことに、オジサンは目が見えないんだよ』
多分、斬りながらそんな戯れ言を口にしたのだろう。聡い子なら『動かなければ助かる』と考えるかもしれない。逆に悲鳴をあげて逃げようとすれば、獣の本能で反射的に殺されていた筈だ。台所や女中部屋を片付けた河上が、岡田を呼び戻そうと大広間に向かい、血まみれの現場に立ちすくむ子供を見つける。
『岡田殿、残してきた我が子でも思いだしたか?』
『何の話だ? 生きて動いてるモノは、全て斬ったつもりだぜ』
『ふうん。これでも動かないかな?』
既に事切れている女の首を、わざわざ切り落として子供の前に置くなどと酔狂な真似をしたのは、河上だろう。実際、岡田は死体の位置こそ血の匂いで知ることができても、それが誰かは見分ける手段を持たない。だが、視覚さえ正常ならば、助けを求めるように必死の視線を注いでいる女が彼の母だろうと察することは、決して難しいことではない。
それでも微動だにせず、恐怖を耐えている子供を見て『なるほど、母の首を前に声ひとつ出さないとはね。なんというロックでござろう』と感心して、見逃すことにしたのだろう。河上はそういう類いの男だ。
そのこと自体は、別に高杉にとって目新しい情報でもない。ふたりの性格は知り抜いているし、真選組や幕府内に置いている内通者から、詳細な報告やその写しも得ている。いずれにせよ、今回の“天誅”の相手は、小者だ。むしろ、紅桜との融合や闘いで傷付いた岡田のリハビリのようなものだ。最初から完璧なんぞ期待していない。
「その子供が長じて、母親の仇を取ろうと晋助様に徒なすようになったら、どうするんスか!」
「ああ、それは困りましたねぇ。女の子だったら良かったのに」
来島の懸念には一理あるだろう。だが、その子が育って己の手に剣を握るようになるまで己が『攘夷活動』なんぞを続けているのか、高杉自身にも分からない。既に、そのような思想活動は陳腐な時代錯誤になり、桂一派ですら現実を受け入れて穏健派に転向しているではないか。例えば十年先、俺の『破壊』は終わっているのだろうか、そもそも、生きているのだろうか。破壊した先の世界はどうなっているのだろうか。壊し尽くしたと思っても、俺が死んで忘れられた頃には、世界は何ごとも無かったように復興しているのではないだろうか。ましてや、次の世代の時代なんざ想像すらできない。
これが例えば、坂本だったら『かんぱにーというものは人格のようなもんぜよ。ワシが死んでもかんぱにーがある限り、ワシの意志は生きる』などと言っていたろうが、自分にそこまでの人徳は無い。いや、そもそも確か跡取りができた筈じゃなかったっけか。いずれにせよ、彼は自分とは逆に、いつも未来への夢を見ている。
一方、市井に落ちた銀時もフツーに家庭を築くというタマではないし、どちらかというと自分とは別の意味で刹那的に生きているようだ。桂は……アイツは多分、バカだから何も考えてない。
松陽先生は、俺らに武士道を説いている時、どんな将来を思い描いていたのだろう。
「そういえば、蜘蛛の糸ってぇハナシがあったな」
代わりに、ヒョイとそんなことを口走っていた。
「ああ、仏教説話ですな。蜘蛛を殺さずに助けた悪人が地獄に落ちてから、その小さな善行を思いだした釈迦が蜘蛛の糸を垂らして助けようとする」
「そのチビスケが、蜘蛛だとでもいうんスか?」
「そういう訳じゃねぇよ。そういえばあのハナシ、糸が切れて結局、地獄に戻るんだっけな」
来島と武市が、煙に巻かれてキョトンとする。ようやくコイツラ静かになったなと、高杉は息をひとつ吐くと、三味線のバチで弦を弾いた。
未来なんざどうでもいい。俺はただ生ある限り壊し続け、そしていつか、あの黒夜叉……松陽先生の仇を取る。それだけだ。しかし、あの子供が女の子だったら、武市が引き取りたいとか言ってたな。そうなってたら、ここで子供を育てたのだろうか。さすがの俺も『次の世代』を考えるようになるのか? まさか。
趣味の悪い妄想にバチ捌きが乱れたか、ぷちんと音を立てて弦が一本切れた。
了
【後書き】近藤のところにも子供が欲しいという北宮さんの案に『沖田は山崎と同じ方法で女体化してるから、子供を産めない設定だから』と、却下し続けていたのですが、養子ならばということで、話を錬ってみました。
次作、ひな祭りにも勲平は登場します。
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