いまそしる/下


切れ切れの意識の中で「こないだは、おとなしくお弁当食べて、ちゃんと寝てたっスか?」と、尋ねられたことがぽっかりと記憶の底から浮かび上がってくる。
あれは誰だったろう……そうだ、高杉のところの、蓮っぱなそうな、女の側近だ。そう問われるまで、『こないだの夜』のことをすっかり忘れていた。
元に戻るまで伴寝をしてくれた土方や、一通りの事情を知っているらしい近藤が、あの夜の事を一切蒸し返すことなく黙っていてくれた……という理由もあるだろうが、それ以上に、あの出来事が自分の身の上に起きたのだと信じたくないあまり、無意識に記憶を封じてしまっていたのだろう。

「あぁ、来島殿か……弁当は朝、食べた」

「朝? 夜はお腹すかなかったスか? おとなしく寝てたんスか?」

「いや、その」

気まずそうに俯くのを見て、来島は「あーららぁ」と苦笑いした。

「屯所に送らないで、戻るまでここで休ませた方が良かったっスかね? ここはここで、手癖悪いのんが居るし、あんまり遅くなってもそっちが心配するだろうからと思ったんスけどね」

来島はほぼ正確に状況を察したらしく、そんなことを言った。

「はぁ」

「別に、あたいらテロリストが風紀がどうの、道徳がこうのいうつもりもないから、合意の上でなら好きにすればいいし」

「まぁ、合意といえば合意か」

「合意でなくても、すぐに元に戻るからリスクも無いスね……じゃあ、楽しんだんだ?」

「楽しむ?」

「オンナの方がキモチイイって、俗に言うじゃん。ホントどうか知らないっスけど。比べてみたんでしょ」

見た目の印象に違わない来島のあけすけな物言いに、伊東の方が気恥ずかしくなる。男としての経験がないから比べようも無いと、正直に告白してしまうほど伊東の口は軽くはない。
来島もそのこと自体には興味はなかったらしく「クスリの出処はゲロってないすよね」と、話題を変えた。

「真選組参謀とあろうものが、奇兵隊に出入りしていると知らしめる証のようなものっスからね」

「それは……大丈夫だ。前回も、今日も、幕府の高官の接待ということになっている。彼等なら天人との繋がりがあってもおかしくないうえに、アンタッチャブルだから」

「なるほどね」

来島はそういうと視線を逸らした。元来があっさりした気質の上に、軽い気持ちでの質問だったのだろう。

「……で、敵方は、誰だったんだ?」

傍で知らん顔をしていた高杉だが、ふと二人の会話に興味をそそられたらしく、そんな下世話なことを尋ねてきた。

「前に連れて来ていた、色子か?」

一瞬、伊東は誰のことを話しているのか見当がつかなかったらしく、唖然としていたが、やがて思い当たったらしく「色子……篠原君のことか? 彼は色子じゃない、祐筆だ」と、毅然とした口調で否定した。祐筆というのは、いわゆる秘書である。篠原は土方に引き抜かれ、副長直属の監察方に就いていたのだが、最近、祐筆として異動してきた。

「寝てないのか」

「公私混同したりはしない」

「ご立派だ。で、誰に股ァ開いたんだ?」

「そんなもの、誰でもいいだろう」

「誰でもよかぁねぇだろう。他人なんて信用しねぇ性質だと思ってた貴様が、肌身を許す程の相手が誰なのか、気になるじゃねぇか」

だが、高杉の方は『情報がもれたら困る』というよりは、純粋に好奇心が勝っているようだ。そもそも、それがもれたからどうなんだ、という開き直りにも似た度胸があるのかもしれない。

「その、僕が認めた力量の男だよ」

「土方か」

さらりと当てられて、伊東が言葉に詰まる。
確かにそれは事実だが、いずれ殺してやると明言しライバル視してきた、今までの経緯がある。肯定したものか否定したものか、どう反応すべきか迷っているうちに、高杉が『正解』と察したらしく、カラカラと笑った。

「やはりな。貴様は歴史に名を残したいとか、周囲に実力を認めさせたいとか言っていたが、それが本心ではねぇんだ。本当に欲しているのは……」

違うと答えたかったが、なぜか声が出なかった。
高杉の隻眼の光が、虚言を押しとどめさせたのかもしれない。

「薬効に、催淫作用があると聞いてる」

辛うじて、そんな言い訳ができた。高杉の目が細められる。

「ほう。本当にそれだけか? なんなら、試してみるか?」





そう、そこで記憶が一度途切れて。





意識が浮かび上がった時には、衣類は剥ぎ取られていた。滑らかな素肌が触れあう感触は温かく、心地良かった。

「あ……んっ」

「起きたか?」

見下ろす端正な女の顔は、よく知っているようでピンとこない。短い漆黒の髪、鋭い光を放つ瞳……女も全裸だった。

「僕は……一体?」

「ちょっとした実験さ」

女はそういうと、伊東の胸乳に吸い付いた。舌先で巧みに転がし、柔らかい肉に埋まっていた幼い果実をくじり出す。
実験? そうだ、あの後で「確かめてみようや」と促されて、どろりとした液体を満たした湯飲みを受け取った……ような気がする。だが、なぜか記憶があやふやだ。

「あ……やっ」

むず痒いような感触に肩を揺すって逃れようとするが、相手は頓着せずに反対側の乳首も舐め回した。反応した紅い果実はぷくりと膨らんでいる。

「気持ちいいか?」

女に尋ねられ、まるで魅入られるようにこっくりと首を振る。まだ頭が朦朧としていて、抵抗しようという気にはならなかった。
女が、真紅の唇の端を吊り上げ、喉をコココと鳴らして笑ってみせる。その表情が記憶を刺激した。同じ笑い方をする男がいた、名は確か。

「高杉……?」

しかし、高杉は左目を包帯で覆っていた筈……いや、そういえば、あのクスリはコーテンテキヨーソはケーショーしないと言っていた。後天的要素? だから、この女に両目があっても、おかしくは無い……筈だ、理論的には。
頭には徐々に血が巡ってきたようだが、身体はまだ動きがままならず、高杉と思われる女が膝を割って、脚の間に腰を擦り寄せてくるのを拒むことができなかった。

「一体、なにを」

「見りゃ分かるだろ」

触れ合った部分がじゅぶりと音を立てた。

「んふっ」

小さく声を上げたのは、女の方であった。より密着するように足を絡めながら、腰を揺らしてその一点を擦り合わせる。

「あ……んうっ」

女の表情がうっすらと熱を帯び、声が上擦っていく。己の乳房を掴んで、自らの感触に没頭している様子だ。それに連れて伊東の腰の奥も熱く、何かが込み上げる感覚に圧倒されていき、気付けば自らも腰を振りながら「もっと、もっと奥も来て……」と、鼻にかかった甘い声を洩らしていた。

「やあっ、なんか来るぅっ、来ちゃうぅ!」

やがて、悲鳴に似た声を上げたのは、伊東の方だった。ぶるりと大きく全身が痙攣したかと思うと、熱いものがほとばしる。
女は一瞬、伊東の反応に目を見開いたが、やがてこちらも「あ」と小さく声を上げて、動きを止めた。だが、伊東はまだ全身がわなないて動けないでいる一方で、女はさっと身体を引いた。

「寝ていろ。足りなきゃ、他の奴を寄越す」

そう言うと、伊東の目蓋に口付けて閉じさせ、立ち上がる。

「いやだ、いかないで……側にいて、ひとりにしないで」

そう訴えて、重たく感じる腕を差し伸べてすがろうとするが、その気配はすうっと遠のいて……そして、気付いたら、あの路地にいた。
いや、その間にも何かあったはずだが、思い出せない。思い出したくない、という方が正解だろうか。






本当に欲しているのは……ただ、愛されたいんだろ?






「伊東? 大丈夫か?」

記憶を辿る内に、再び眠りに引き込まれていたのか、揺り起こされた。

「土方君?」

「俺はここにいるぞ」

「え?」

「いや、ひとりにするな、って言ってうなされてたからよ」

お互い全裸のままだった。
まだ夢から醒めきっていなかった伊東は、敵方が女の身体ではないことに違和感を感じたが、徐々に自分が土方に女として抱かれたことを思い出す。それと引き換えに、女体同士で交わった記憶がぼろぼろと崩れていった。

あれは夢だったのだろうか。
現実の体験だという実感が持てない。

分厚い窓を覆うカーテンの向こうは夜が開けているのか、その隙間から白けた光が漏れてきている。

「今、何刻だ?」

「暁七ツ(午前4時)……いや、七ツ半(5時)になるかな」

ずいぶん夜明けが早いんだな、と妙に感心する。
季節的に当たり前なのかもしれないが……そういえば、昨日食べたドルチェも初夏の限定ものだし。

「昼四ツ(10時)にはチェックアウトだろうが……それまでに戻るのか、それ」

「それ?」

「そのカラダ」

どうやら、自分の身体がまだ女のままであることだけは、現実であるらしかった。

「分からない」

「んだと?」

「本当に分からないんだ」

ともすれば、元からこんな身体だったかもしれないという錯覚すらするほど違和感がないし、どんなクスリだったか誰から貰ったか、詳細をまったく思い出せないのだから、仕方ない。そう説明すると、土方は頭を抱えた。

「そのままっつー可能性もあるのか」

「多分」

「参ったな……ま、しゃあねぇな。こうなったら、毒食らわば皿まで、だ。元の身体に戻るまでは、面倒みたらぁ」

「うん」

「いいな、戻るまでだぞ」

「分かってる」

「元々、俺とテメェは仲が悪いなんてモンじゃなくて、殺してやるってお互いマジで思ってたぐれぇなんだからな」

「そうみたいだね」

本当に分かっているのかいないのか、伊東が小さくあくびをすると、土方の胸元に擦り寄ってきた。
土方はそれを見下ろして舌打ちをしたが、放り出すことはしなかった。素肌が触れ合う心地よい温もりの負けて『このまま目が覚めた時には元に戻っていればいいな』という楽観的希望を抱きながら、とろとろと眠りに引き込まれていく。





「晋助様ずるい、アタシよりお肌つるつるじゃないスか」

隣の部屋で控えていた来島が文句を言った。

「当たり前です。私が作ったのは究極の美少女を作るための秘薬。思春期に入るか入らないかの瑞々しい肢体を、また子さんのような、トウがたったババアの肌と比べるのは失礼ですぞコノヤロー」

武市がそう主張するのを聞いて苦笑しながら、高杉は着物を拾い上げて袖を通した。

「かなり意図的に正気を保たないと、人格まで飛びそうだな。いや、あの様子だと伊東の奴、かなりアタマのネジが逝ってるな。前回もそうだったんだろう。その状態で屯所に帰したのは迂濶だったかもな……来島、冷たい水」

「はい、晋助様」

「だが、逆手に取れば暗示にかかりやすい、まっさらな状態でもあるということだな……何か仕込むか」

コップの水を半分ほど飲み下し、残りを己の頭にぶっかける。ジュッという、人体にかけられたとは思いがたい音がして、もうもうと湯気がたった。

「水……あと、解毒剤を寄越せ」

「お戻りになるんですか、せっかくの究極の美少女なのに……せめて一発、いえ写真でもいいです」

「だったら、アタイも晋助様と貝合わせしたいっス!」

「うるせぇ、てめぇら殺すぞ。いいから持って来い。万斎に見付かったら、うるせぇしよ」

凄む顔もどこか愛らしいのは、元々小柄な身体がさらに縮んでいるせいか。もう一杯冷水を受け取ると、これも頭から引っかぶり、犬のように首をぶるぶると振った。見る間にその水が乾いていく。
武市が、もったいないと繰り返しながらも、どろりとした液体で満たされた小瓶を運んできた。高杉は小刀を片手に、それを飲み下す。
意識を手放すと(人格云々だけでなく、貞操的にも)どうなるか分からないから、正気を失いかけたら、これで太股を刺すつもりだ。どうせいくら刻んでも、次の造形になる頃には消えている。

「あっち、どうします?」

「来島、遊んでやれ。貝合わせしたいんだろ」

「晋助様じゃないと嫌っス」

「ワガママだな……水」

来島はにっこり笑うと、水差しの水を己の口に含み、苦げにあえぐ高杉に口移しにした。重ねた唇が火傷をしそうなほどに熱かった。徐々に身体が煮溶けて作り替えられている最中らしい。それでも失神するどころか平然と会話をしてみせるあたり、高杉の精神力は相当なものだ。

「だったら……が居たな。似蔵に応対させてた筈だが……せっかくだから、呼んでやれ」

「いいんスか?」

「あの様子、どうせいくらオモチャにしても覚えちゃいねぇ」

だったら晋助様も遊ばせてくれればいいのにと、不肖の部下共は思うのだが、再び片目が醜く潰れた顔でじろりと睨まれては、声が出せなかった。




二木二郎は真選組三番隊の隊長である。
伊東鴨太郎はいつか組を裏切るという副長土方の言葉に、日頃から彼の動向に注意を払い続け、ついに奇兵隊の高杉晋助に接近していると嗅ぎ付けた。だが、二木はそれをすぐには報告しなかった。伊東を敵視している土方なら聞いてもくれようが、局長近藤の信頼が厚い状態では、単なる讒言に取られかねない。だから、確実な証拠を得てから。そう考えていたのである。

梅之助氏の屋形船で食事でもどうかね。

そう誘われたときには「しめた」と思ったものだ。その名が高杉の変名であることは、突き止めていた。
しかし、高杉を捕らえて手柄をという気持ちは、いざ屋形船で本人に引き合わされた時には萎えていた。いや、高杉の眼光に気押された、と言っても良い。
新しい時代のリーダーは彼ではないかと思わせる、圧倒的な存在感と魅力を目の前の小柄な男から感じたのだ。近藤の清濁合わせ呑む大らかさや、土方の強引なまでのリーダーシップとは違う。ただ、盲目的にこの男について往きたいと思わせる、底なしの魔魅のようなもの。

気付いたら、高杉に心酔していた。
その日も、いかに自分が高杉を慕っているか、奇兵隊に身を寄せることを望んでいるかと、似蔵相手に熱く語っていた。
そこに、ひょっこり当の本人が現れた。二木は飛びあがると、畳に額を擦り付けて平伏した。

「二木。ちイと変わったものを賞味してもらおうと思ったんだが、食うか?」

「変わったもの? 高杉様にご馳走頂けるとは、光栄のみぎり」

至りだろ……とツッコむほど、高杉は親切ではない。
障子を大きく引いて隣室を見せると、そこには白い腿も露わな女体がぐったりと倒れていた。

「あれは……まさか、伊東先生?」

「なぁに、天人の技術を借りた軽い悪戯よ。どうだ?」

自分は試されているのだろうかと、二木はぼんやり考えていた。
古くからの同志であり、現在の組織の長である近藤を裏切ろうとしている自分が、新たに主導者として担ぎ上げた伊東に対してどう振る舞うべきか……だが、二木の中で、伊東よりも高杉が絶対的な存在になりつつあることは確かであった。
高杉がそうしろと命じるのであれば、伊東なんぞ切り捨ててもいい。おべっかでもゴマすりでもなく、本心からそう思えた。

「有り難く頂き申し上げます」

「ほう」

高杉が口角を軽く上げたが、二木はその表情には気付かなかった。それよりも、高杉の目の前で己の上司であった筈の女を抱くという、その倒錯的な状況に酔い始めていた。
だが、その柔らかい身体を抱きとろうとした時に、女が目を覚ました。悲鳴をあげながら二木の肩を突き飛ばし、必死で後ろ手に這う。

「どうやら、誰でもイイという訳じゃなさそうだな。せっかく勧めたのに賞味させられなくて、悪かったな」

少しく間、その見苦しい追いかけっこを苦笑混じりに眺めていた高杉だったが、やがて、べそをかいている女の裸身を抱き取って、これを収めさせた。

「面目ない」

二木は急にしょげ返った風情で、緩みかけていた袴の紐を結び直した。





二木を追い返した後、高杉は手をパンパンと叩いて来島を呼びつけると、伊東の身を浄めさせて服を着せるように命じた。
そこに、呼ばれもしないくせに河上万斎も来て、高杉のすぐ隣に腰を下ろす。

「また楽しそうな実験をしていたらしいな、晋助。拙者も呼んで欲しかったでござるよ」

高杉は返事もせず、ただ黙然と煙管を吹かしている。

「それにしても。近藤を裏切ろうと気焔を上げておきながら、その直後にその旗印である伊東に、あのような真似をするとは、なぁ、晋助」

ぽん、と煙管を煙草盆に打ち付けて灰を落とした。
視線の先には、着替えを済ませた伊東が、来島に促されるようにして佇んでいた。

「こちらの目的としては、真選組を混乱させて、春雨の入港から目を逸らしさえすればいい。もちろん組を潰すか、あるいは勢力を半減させるに越したこたぁねぇが」

そう言いながら高杉が片腕を差し伸べると、伊東は素直ににじり寄って来た。
先ほど肌を合わせたせいか、それとも二木の手から助けてくれたせいか、ともあれ雛鳥が母鳥を慕うように、高杉を信頼し切っている表情であった。その肩に触れて耳元に唇を寄せると、ボソボソと何事か囁く。
その言葉は周囲には聞こえなかったし、伊東本人も記憶の奥底に沈んで思い出せなくなっていた。






夢うつつの状態で伊東が目を開けると、土方が渋い顔で見下ろしていた。

「畜生、戻ってねぇ……な」

「戻る?」

「元の身体に、だ」

裸のままの身体……それも、肌の上に点々とこびりついたものが乾いて、引きつっている。恐る恐る身体を起こすと、シーツも血と体液が混じりあって染みを作っていた。僕達は本当に身体を重ねたのかと、伊東は他人事のように思う。現実感がやたらと乏しかった。

「どうすっかな。このまま屯所に帰らねぇ訳にもいかねぇしな。ま、仕方ねぇか……おい、オマエも風呂入って来い。湯、溜めてあるからよ」

「うん」

「チェックアウトまで四半刻(30分)切ってるから、さっさとしろよ」

伊東はもそもそと起き上がり、浴室へと向かう。その足が、ふと停まった。自分が何を言いたいのか把握する前に「居なくならないでくれよ?」という言葉が唇からこぼれた。当然、土方が片眉を上げて「は?」と、怪訝な声をあげる。

「いや、その……つまり、僕を置いて、先に帰ったりしないでくれ」

「まぁ、テメェ、財布ねぇって言ってたもんな。なんだよ、さっきはひとりにするなとか言い出すし……ちゃんと待っててやっから心配すんな」

「……うん」

「男ん戻るまでは、面倒みてやるって、約束したろ? どんだけ信用ねぇんだよ、俺」

「そういう訳じゃないんだが……もし、男に戻ってたら、放り出した?」

土方はそれには返事をせず、代わりに脱ぎ散らかしていた隊服を拾い上げると、内ポケットから煙草の箱を引っぱり出した。伊東は紫煙が立ちのぼるのを見詰めていたが、やがて諦めて浴室へ入った。
白い卵型の浴槽はジェットバス付きで、しかも泡風呂になっている。湯は獅子の姿をした像の口から滔々と溢れ出していた。一見かなり豪華だったが、そこはやはり安い連れ込み宿、大理石を模してはいるが、軽く指の関節で叩いてみた感触は軽く、中が空洞のプラスチックであるらしかった。
あの土方がどんな表情で、泡風呂用の液体石鹸のパックを破いて湯舟に注ぎ、この風呂に浸かっていたのだろうかと想像すると、思わず笑いが込み上げた。

この身体でいるのも、悪くないかもしれない。いや、この身体でいたい……その意識が仕組まれたものであったのか、あるいは天命のものであったのかは、伊東自身には判別できなかった。






それから数カ月後、二木が一隊を率いて高杉の許へ奔ったが受け入れを拒まれ、自暴自棄気味にクーデターを起こしたものの、あっさりと鎮圧された。その騒動の間に、悠々と海賊春雨の戦艦が入港したのだが、それはまだ土方らの知るところのものではない。

とりあえず、山崎にどう言い訳すべきか。それから、伊東にこの身体のままで仕事を続けさせるかどうか、近藤さんに相談して……しかも、女っけのない屯所にこんなのを置いておくからには、隊士が騒がないように抑えておかねばなるまい……そんな細々した悩みごとで頭が割れるように痛かった。





【後書き】単発モノのつもりでしたが、裏でこっそり続いています。にょた鴨モノ。このハナシを書き上げるまでは、書き溜めたものも出せないなと思っていましたので、ようやく漕ぎつけたという思いです。タイトルは、西行法師の和歌「今ぞ知る 二見の浦の蛤を 貝合わせとて覆ふなりけり」より。
なお、当シリーズの時間軸等は、原作とはまったくのパラレルの設定になりますので、予めご了承ください。

【追記】原作に斎藤終が登場したため、斎藤を二木二郎に差し替えました。
初出:09年01月01日
一部訂正:14年05月04日
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